小島ゆかり『雪麻呂』(短歌研究社 2021年)
「家族」とは何だろう。考えてみれば本当に不可思議なつながりだ。良くも悪くも、とてつもない影響を「家族」から受ける。それは無意識にも自らの深いところに入り込み、考え方や行動を規定しているだろう。生まれた時の家族は、自分では選べない。長じて、自ら選んだ家族でも、選んだように見える家族の形でも、何でそういうふうに繋がることになったのかと顧みれば、うまく説明できないミステリアスな要素がある。偶然のような必然のような出会い。縁がある、と一言で括ってしまってはなんだが、その「家族」へと導いた何かの力を感じることがあるのではないか。
「家族みな子どもにかへり」、これは、わくわくする、突き抜けた発想だ。家族には諸々の役割があって、例えば「お母さん」が「子ども」をたしなめ、「お父さん」が「赤ちゃん」を抱っこする、というような、一方向に作用する行為もある。この逆は基本的にあまりない。「子ども」が「お母さん」をたしなめることは、たまにあるだろうが、少なくとも小さい時は、お母さんが子どもをたしなめる方が圧倒的に多いだろうし、赤ちゃんがお父さんを抱っこすることはない。つまり、当初から少なくとも上辺では、役割に高低差が生じている。(もちろん、その実、子どもはお母さんの心を糺し続け、赤ちゃんはお父さんを優しく抱き続けてもいるのだが。)
また、役割が人をつくるということもある。「お父さん」は、実はとても臆病な人だが、子どもの手前、頼りがいがあるように頑張って見せているということはあるのではないか。
だから、「みな子どもにかへ」ったとしたら、そういう役割は消え、その人の質だけが、露わになってくる。恐い「お兄さん」が、全然うまく遊べずにしょぼんとしていたり、逆に、足の悪い「おばあさん」が、軽快に見事に飛び跳ねたりするかもしれない。
人間には、実年齢とはまた違う、心の年齢、魂の年齢のようなものがあるという。年をとっても、いつまでも子供のように聞き分けのない人もいれば、逆に、子どもでありながら、老成した聡明な目で、物事を受け止める人もいる。そういうところも、見かけ上の年齢・役割が取り払われれば、浮き上がってくるのだろう。そして新しい関係性が、その遊びの場に築かれるだろう。
何の遊びをするのだろう。歌の真ん中にある「秋の日」からは、屋外の懐かしい遊びが思われてくる。秋がかつての運動会のシーズンだったからだろうか。
例えば、鬼ごっこ、かくれんぼ、ケンケンパ、だるまさん転んだ……。一緒に駆けて一緒に笑って。「子どもどうし」の「どうし」は、そんな同一の地平においてほのぼのと楽しむ子どもたちを表している。
そこで遊ぶ「みな」の中には、今はもう離れて会えなくなってしまった人や、亡くなった者もいるかもしれない。「遊んでみたし」はできないからこその願いで。
ありえない夢のような光景。天上のあたたかいひとところのような。
確かに、みんな子どもだった。