風鈴に指紋ありたり夏は疾く遠くなりゆく季節と思ふ

𠮷澤ゆう子『緑を揺らす』青磁社,2023年

夏の終わりは季節の切り替わりを妙に感じやすいと思う。体感としてキレイに切り替わるわけではない。九月に入ってもだらだら暑いし、蝉も鳴く。ただ、夏休みという区分が身に染みているからだろうか、日中の気温が三十度を越えていても、九月に入ると夏が行ってしまったような感じがする。他の季節だと、じんわりと季節が移行していく感じがあるのだけど、夏はわりかしスパッと終わりを感じるような気がする。日中に鳴くツクツクボウシよりも夜間に鳴く鈴虫や松虫の方を、昼間の暑さよりも夜間の涼しさの方に焦点を当ててしまい、不思議だなと思う。

三句目以降の感慨はよくわかるような気がする。「疾く/遠く」の句切れを挟んだリズムは季節が過ぎ去る速さを韻律の上でも感じさせる。「疾く遠くなりゆく季節と思ふ」とリズムはゆったりとしていき、遠く過ぎ去ってしまった「夏」を遠くから眺めているような印象がある。

初句二句の解釈は、風鈴に人間の指紋が付されていたのを見つけたという現実の描写としての解釈と、風鈴が指紋を有しているという詩的表現としての解釈があり得るように思う。前者であれば、夏が終わって風鈴が仕舞われる際の場面などを想起し、夏のはじめに硝子製の風鈴を設置した際に付された指紋に夏の終わりに気がついた、というような具体的な情景が想像できる。後者であれば、風鈴の音が指紋として機能し、その音を聴く者に指紋を付すのだろうか。指紋を付す対象は人間とは限らず、そこらかしこに指紋は付され、去ってしまった夏へも風鈴の指紋は付着しているだろう。指紋なので、「夏」はそれに気づかないかもしれないけど。

いずれにせよ、そこには痕跡がある。風鈴についた指紋は夏につけた人間の痕跡のようだし、風鈴によってつけられた指紋は夏の痕跡のようだ。「あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ」(小野茂樹『羊雲離散』)や「逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと」(河野裕子『森のやうに獣のやうに』)のように、夏の個別性に焦点を当てた歌は多く、どこか〈あの夏〉や〈この夏〉という限定は有意に響く。掲出歌が付す痕跡も、そんな夏の個別性にどこか結びつくような気がする。

夏が終わるのは妙にさみしい。生命感あふれる夏に比して、秋の方が枯淡でもの悲しく感じられる。だからだろうか、振り返る季節として夏はぴったりとくるような気がする。白秋から朱夏を振り返るような不可逆性を感じもする。

夏という季節はまた巡ってくる。それでも、この夏は一度きりしかない。そんな陳腐な夏の認識も、夏が持つ個別性を強く感じさせる。一首を読みながらそんなことを考え、終わってしまった今年の夏を惜しむのだ。

全身に受けゐる秋の向かひ風此処と異なる陽の匂ひあり/𠮷澤ゆう子『緑を揺らす』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です