遠き日の水平、リーベ、ぼくの船、沈めて青し秋の内海

山下 洋『オリオンの横顔』(青磁社  2007年)

 

 中学のときの理科の時間。元素記号を一番から順に暗記させられた。それが「水平、リーベ、ぼくの船」。「水」素、「ヘ」リウム、「リ」チウム、「ベ」リリウム……語呂合わせで調子よく覚えたものだ。

 「水平」は「水兵」として覚えた人もいるだろう。

 「水兵」のロマンも捨てがたいが、「水平」ははてしなく広がる海を連れてくる。水平線があってそこに「ぼくの船」が現れたとき、その世界の調和がうれしく感じられる。

 

 それで、その先は……となると、どうやらまちまちらしい。「Na Mg Al Si P S」は「七曲がりシップス」になったり、「なぁ曲がるシップス」や「名前あるシップス」になったり。私はオリジナルで、ちょっと強引だが、「眠る船」と覚えていた。そんなふうに、自分なりになんとかこじつけた人もいるだろう。

 

 話を戻す。つまり、歌にある〈すいへい、りーべ、ぼくのふね〉までの韻律は、ほぼ全国共通と言って良いのではないか。それにしても、これはとても素敵なフレーズだ。どなたが考えたのだろう。科学なのに、記号なのに、難しそうなのに、そこに詩がある。海原に船が浮かぶ風景を、全国の中学生(と、元中学生)が、元素記号から想像するなんて、全く稀有なことではないか。

 

 「リーベ」はドイツ語で「愛」という意味だそうだ。

 水平線に愛すべきぼくの船がある。もしくは、海にて恋しい人を思っている。水平線、恋人、ぼくの船、大切なものたち……。読点「、 、 、」の連なりが、それらのイメージを少しずつ重ね合わせつつ膨らませてゆく。

 

 それらが今、「秋の内海」に沈んでいるという。「内海」は陸と陸に挟まれた海、もしくは、岬に囲まれた湾。だから、波は穏やかで静かだ。

 沈んでいる「遠き日の水平、リーベ、ぼくの船」を「少年の日」と言い換えて良いだろうか。少年の日の思い出、少年の日の心……。それを、その地点から遠く離れた今、改めて思っていると。

 たとえば、少年の日、海に向かって、「水平、リーベ……」と暗記の練習をした光景を思い出しているとか?

 

 いやいや、そんな単純なことではないだろう。「沈めて」には「沈んで」よりも意図的・能動的なニュアンスがある。もしや、若き日、沈めてしまいたかったものがあったのかもしれない。その時、「水平、リーベ、ぼくの船」は、ぼく自身の水平線、ぼく自身の愛、ぼく自身の船でもある。青春は苦しい。悔しさ、悲しさ、ほろ苦さ……「憧れ」の傍らには、それらが付き従っていて。

 

 けれど、「沈めて青し秋の内海」というフレーズには、沈めることで深まる充実が思われてくる。沈めることにより、青みが増したのだ。これが大人になったということ、時を経たということ。この歌は、時間の歌なのだ。

 

 「青し」の切れには詠嘆がある。潔さがある。ああ、青いという感慨。そして、「秋の内海」は外の風景でありながら、内在する海でもある。内なる海も青いのだ。

 

 秋の内海。

 翳りゆく秋だからこその。

 その青さを感じたい。

 

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