シャッターが全部下りてる夜の道に似てる打線を知っていますか

池松舞『野球短歌 さっきまでセ界が全滅したことを私はぜんぜん知らなかった』ナナロク社,2023年

『野球短歌』の冒頭には「いつまでたっても阪神が勝たないから、短歌を作ることにしました。」という一文がある。同書の短歌には日付と阪神の勝敗が付されおり、短歌を作りはじめた二〇二二年の四月八日からはじまり、阪神のクライマックスシリーズ敗退が決まった十月十四日の日付で終わる。同年の阪神は開幕九連敗を喫していて、序盤戦は劇的に勝てなかった。

掲出歌は阪神が敗れた九月四日のもの。上句で提示されているのは、実際の景というよりは比喩に近いものだ。「シャッターが全部下りてる夜の道」という場面は、例えば商店街のような場所を想起させる。「夜」とあるので時間が遅いためにすべての店が閉まっているのか、あるいはそもそもシャッター街になっていて店が開くことはないのか。いずれにせよ、そこは閑散としていてさみしい場所だ。初見の商店街であれば、いずれの状況かは判断ができない。

そのさみしい商店街と似ている「打線」の存在が下句で仄めかされる。〈ような〉という直喩ではなくて、「似てる」というもう少し幅のある言葉が選ばれ、シャッター街の実在している感じが強まり、「打線」の実在している感じは少し減じる。閑散としてさみしい打線。薄暗く活力の無い打線。同日の阪神は敗れていることが明示されているので、阪神打線が念頭に置かれているのだろう。似ている打線は実在するのだ。

前述のとおり、シャッターをおろした通りの状況は確定しない。もしかしたら、今は夜遅いから閑散としているだけかもしれない。人気のお店がたまたま何店かお休みで、そこが開けば活気は戻るかもしれない。状況が確定しないがゆえに、状況が改善する可能性がにじむ。それは、阪神打線への淡い祈りのようにも感じられる。

九月四日のスコアを調べると、その日は巨人との二十四回戦で、二対〇の完封負けを喫している。巨人は三安打ながら中田翔のツーランホームランで二点をもぎ取り、一方七安打の阪神は繋がりを欠き、好投の西純矢を援護することができなかった。打線への憤懣が一首が生まれる契機となったのだろう。

プロ野球を詠み込んだ歌として、「サブマリン山田久志のあふぎみる球のゆくへも大阪の空」(𠮷岡生夫『勇怯篇 草食獣そのⅢ』)や「火達磨となりたる与田よだがひざまづく草薙球場しんかんと昼」(大󠄀󠄀󠄀󠄀辻隆弘『抱擁韻』󠄀)をすぐに思い出すのだけれど、いずれも打ち込まれた場面が詠まれている。華やかな勝利の場面よりも、敗北の場面の方が短歌には昇華しやすいように思う。喜びよりかなしみの方が感情が重く乗り、一首の歌は屹立しやすい。阪神が勝てないから短歌を詠み出したという作歌動機には納得感がある。

先日、阪神タイガースはリーグ優勝を決めた。実に十八年ぶりだという。逆に言えば昨年は十七年目。鬱屈は重たいだろう。『野球短歌』はそんな鬱屈のきらめく副産物だったのだろうか。

糸井が言う タイガースの強い時代がくることを信じて一緒に応援しましょう/池松舞『野球短歌 さっきまでセ界が全滅したことを私はぜんぜん知らなかった』

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