春日真木子『何の扉か』(角川書店 2018年)
老いて化けるものの筆頭は、猫又。ネコが年をとると尾が二つに分かれ、変化できるようになるという。他にも、阿古耶の松は老樹に精が宿る話であるし、百年以上年月を経た道具は付喪神になる。
ならば人間だって、と思うのは当然だ。木だってお銚子だって刀剣だって化けられるのに、人間にできないはずはない。
さて、何に化けようか。いや、主体にはもうわかっていた。化けようと思った時から、ごく自然にその対象は思い浮かべられていた。
それは、花。「化」に「艹」をかぶせれば「花」になる。まさに、草のかんむりを載せるようなさりげない軽やかさの中に、もう変化は成立するのだ。
確かに、「化け」るとは、深刻で重い感じがしてしまう言葉だけれど、「化」は化粧の「化」でもあるのだし、そもそも、もっと気軽で容易なものなのかもしれない。
「花」へ なんて素敵なんだろう。自らが花になる、その宣言が、「艹かぶれば花よ」という柔らかい自在さとして響いている。
さらに、一字空けの後の「私は生きる」。これは、結構意表を突く句の繋がり方だったが、嬉しい表明だ。「私は」の「は」には、他の人はどうであれ、私自身は、というすっきりとした意志が感じられる。ぜひ、「生き」てほしい。これは、ただ命を永らえるのではない、花として生きるということなのだ。むろん、この「花」は、実際に花になっても、比喩でもかまわないのだけれど、艹をかぶったそのひとときだけでもいいから、誇りを持って「花」としての自分を感じたい、きっと感じられる、そんなふうに心をしゃんと明るませながら生きていきたいということなのだろう。
漢字の成り立ちをモチーフにした一首で、もちろんそこが歌の眼目なのだが、嫌な目立ち方をすることがない。それは、一番言いたいところが「私は生きる」だからだ。理屈の部分は、それを十分に生かすための材料に過ぎないから。そして、そんな発想をこのようにごく自然に歌になじませられる勘所と呼吸を思う。
作者自身が、この時九十歳を迎えることが、他の歌から読み取れる。
「老い」も「生きる」も、なかなか容易ならざるものではあるけれど、でも。「老いたる」方々には、時々は好きなものに化けてくださればと思う。
本日、敬老の日。