とりの内臓もつ煮てゐてながき夕まぐれ淡き恋ゆゑ多く愉しむ

辰巳泰子『紅い花』砂子屋書房,1989年

夕方、鶏のモツ煮を煮ている。レバーやハツ、きんかんやひもなんかを甘辛く煮ている、そんな状況を想像する。

〈モツ〉ではなく、ルビを使用した「内蔵もつ」という表記が選ばれていて、鶏の生命に近く、どこか血なまぐさい印象を受ける。レバーやハツには血の塊を取り除く工程が発生するので、調理中に内臓であることを意識してしまう。ものによっては、ハツとレバーが繋がっているので、それが心臓と肝臓であることが、すなわち鶏の内蔵であることが強く感じられる。

〈ながく煮てゐる夕まぐれ〉ではなく、「煮てゐてながき夕まぐれ」なので、必ずしも鶏のモツ煮ている時間そのものが長いわけではないだろう。鶏のモツ煮は、煮込むほど柔らかくなる牛や豚のモツとは異なり、そこまで長時間は煮込まない。煮込み時間が長いというよりは、モツ煮を作っているこの夕まぐれの時間が妙に長く感じたのだろうか。

一首は下句で「淡き恋」に展開する。モツ煮と淡き恋は随分と離れているのだけど、「夕まぐれ」が間に挟まることで、両者は対峙せずに一首の中で均衡を保つ。「煮てゐてながき」という言い回しも相まって、モツを煮ていて手持ち無沙汰な夕方の時間に、主体は直面している淡き恋に思いを馳せている、そんな状況を想像する。

結句、「多く愉しむ」の「多く」は少し不思議な措辞だ。淡き恋自体を複数回と取れないこともないが、どちらかといえば、目の前の恋から多くの楽しみを引き出そうとしているような印象を受ける。話しかけられた、たわいもないやり取りをした、本の貸し借りをした、そんな場面を思い浮かべる。それは、淡い恋であると自認しているからこそ、「多く愉しむ」というささやかな決意に至るのかも知れない。

淡い恋だからたくさん楽しもう、それは微笑ましいようにも感じられるのだけれど、上句の「内蔵もつ」を煮る描写や「愉しむ」という漢字の選択によっていくらか不穏な読後感を生じさせる。

調理は本来血なまぐさいものだ。ただ、血なまぐさい部分は屠殺行者や加工業者が代行しているので、血なまぐささを感じることは必ずしも多くはない。掲出歌は血なまぐさい部分を浮き上がらせることで、調理という行為が持つある種の加害性のようなものを思い出させてくれる。同時に、淡き恋を取り合わせることで、恋愛という行為の持つ不穏さを読者に思い出させるような気がするのだ。

愛恋はけざやかなればそらへ投げさいごの花はみづから手折る/辰巳泰子『セイレーン』

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