野仏に捧げられたる小菊あり祈りとはただ匿名アノニマスにて

高木 佳子『玄牝』(砂子屋書房  2020年)

 

 野中を歩いてみたくなる季節である。色づく木や草、春夏とはまた違った渋めの美しい花々にもたくさん出会えるだろう。古道ブームも続いているし、「トレイル」、「オルレ」など、歩くためのルートもどんどん整備されている。また、そういうきちんとした道でなくとも、ちょっとした遊歩道や山道に踏み込んでみれば、今の時季ならではの澄んだ空気を味わえるはずだ。

 

 野道の脇に仏像が立っていた。そこに小菊が捧げられていた。小菊はそのあたりに生えていたものだろう。もちろん、店で買ってきたものという可能性もゼロではない。その場合、近所に住む人が折々に仏様のお世話をしているのだ。だが、やはり、この歌では、道端の小菊であった気がする。その時、捧げた誰かは初めからそうしようと思ったわけではなく、通りすがりに野仏の存在に気付き、とっさに供えたのだ。

 野仏にはたくさんの種類があるが、お地蔵様、馬頭観音、道祖神、庚申塔、山神、お水神などが多いだろうか。地域によっても偏りはあるだろう。旅の前途を願うこと、病気や災害などの良くないものが村に入らないようにすること、その場所を鎮めること、野仏に託された役割があった。

 が、今では、雨風にさらされ、目鼻も判然としなくなっているものも少なくない。だからこそ沁みだしてくる崇高さもあるのかもしれないが。ここで小菊を供えた誰かも、野仏の佇まいに自然に惹かれたに違いない。

 

 そんな小菊を見て主体は思う。「祈りとはただ匿名アノニマス」だと。これは、「私、私、」と自分を押し出し、自分だけが金持ちになりたいというような風潮の対極にあるもので、祈りとはもっとさりげなくて静かなものではないのかという問いかけでもある。

 野仏を制作した人も、小菊を捧げた人もわからない。わからないけれど、誰かが供えた花が枯れれば、また誰かが撤去しつつ、別な花を供え、祈って……そういうことを何百年かやってきたはずなのだ。祈りとはそもそも共同的なものであった。通りすがりの、名も知れぬ人達も、結果的に祈りを繋いできた。花を捧げることが決められているわけでもないのに、捧げたくなる、祈りたくなる、祈りとはそういうことではないのかと。

 

 匿名アノニマス」とルビが振られたことで、その匿名性が浮き上がってくる。そして、普遍性を持ち始める。ことは仏教だけの話にとどまらず。そうして、「匿名アノニマス」と小菊とが結び付く時、その小菊のささやかさが、ささやかだからこそ、俄然、輝きを帯び始めるようにも思われるのだ。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です