嫌なことがあったのか、精神的に参ってしまったのか。主体は海へ行くという。海に行ってカモメを見る人になるという。
一首を読むと、カモメを見るという無為以外はしたくない(≒面倒臭いことは何もしたくない)という主体の声が聞こえる。一首の裏側には面倒くさい仕事や人間関係のような人生の雑事が感じられて、読者は自分にいくらか一首を引きつけて共感と納得をすることができる。
一首の意味を一段階抽象化すれば、岡野大嗣の「もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい」(『サイレンと犀』)にかなり近づくのだけど、岡野さんの一首が限りなく箴言に近い形で響くのに対して、掲出歌は戯画化された人間が動いているのを感じる。意味を伝えるだけなら、〈海へ行ってカモメを見る〉とする方が一般的な表現な気がするのだけれど、「カモメを見る人になる」少しだけ俯瞰した表現が選ばれていて、日常からの逃避を詠むと同時に、逃避する自己を戯画化して少し面白がっている印象だ。
この一本吸ったら眠ると決めて吸うあしたが来ないようにゆっくり
ああ月夜、死ぬまで何本あったか〜い缶コーヒーを買うのかおれは
同じく「ユンボと水平線」より。同作は第四回歌葉新人賞の候補作品として「短歌ヴァーサス」に掲載されている。同回の受賞作は笹井宏之の「数えてゆけば会えます」だ。
一首目、この一本を吸ったら寝ると決めるのだけど、可能な限りゆっくりと吸う。それは、日常が待つ明日の到来を遅らせる行為だという。そこでは、面倒な雑事が待つ日常からの逃避が志向されている。二首目、温かい缶コーヒーを買った時に、それを毎日のように買っていることに思いがいたり、何本買うのか自問する。生涯で缶コーヒーを何本買うかが問題なのではない。そうやって人生が空費されていくことが問題なのだ。
人生を背負っていて、深刻になり得るテーマなのだけど、絶望で真っ暗という感じはしない。寝る前に吸う煙草を可能な限りゆっくりと吸って明日を遅延させようという試みも、自販機にある表記を借りてきた「あったか〜い」という表現も、どこかコミカルだ。それは、「カモメを見る人」という自己に対する表現と同様に、いくらか戯画的で、一首を絶望一色に塗りたくりはしない。
一首に希望が感じられるというわけではない。ただ、そこには生への意思とでもいうような妙な空白地帯があって、一首を読んでいて小さく安心をするのだ。
暮れるまで眺めていたが春の日の何も現れない水平線/瀧音幸司「ユンボと水平線」