敗戦処理投手のやうに引き継いでデスクのうへの灯をともしをり

真中 朋久『雨裂』(雁書館  2001年)

 

 一口に「投手」といってもいろいろな役割がある。先発、中継ぎ、クローザー……。適性と、チーム内でのバランスが考慮されながら、役割が与えられてゆく。

 

 「敗戦処理投手」  これは何とも生々しいネーミングだが、まさにその通りで、敵に大量得点され、敗れるのがほぼ決まった試合で出てくる人のことを言う。「敗戦」は仕方ないとして、「処理」という言葉がどぎつい。感情を入れずに、淡々と物事を完了させる、そういうニュアンスがある。人がやりたがらないような仕事を。

 それでも敗戦処理投手は必要だ。なぜなら、試合は終わらせねばならないから。誰かがやらなければならない。おそらくはプロ野球のイメージだと思うが、長いペナントレースの中では、人員の配置ということが非常に重要になってこよう。調子が良いからといって、同じピッチャーを投げ続けさせていたら故障も出てくる。長丁場を乗り切れない。勝てる試合は間違いなく勝ち、敗色濃厚ならば、それなりに収める。最もダメージが少ないように、明日へと続くように。そのためには誰をどのように送り出したらいいか。そういう全体性の中で、物事を見なければいけないのだろう。

 

 この歌では、そんな「敗戦処理投手」が比喩として使われている。「敗戦処理投手のやうに引き継いで」  誰かのやりかけの仕事、それも、良くない感じでぐちゃぐちゃになり、もうどうしようもなくなってしまった仕事を引き継がざるを得なかったのだろう。嫌な役割だ。生産性もない。だが、誰かがやらなければならない。その誰かが自分だということだ。

 組織はどうしても、スポーツのチームのような性格をもってくる。誰かがいなくなれば誰かが補う。それは必要なことなのだけれど……。

 

 「デスクのうへの灯」はマウンドに当たるライト、そして試合再開の合図だ。この「灯」の働きは大きい。せめて灯は自分でともす。マウンド上の孤独。困難な道のどこから手をつければいいか。そして人には顧みられず。だが、役割は役割だ、やるしかない。被害は最小に、なるべく迅速に。これからの逆転の可能性はごくごく薄いとしても……。

 

 それでも立つ人がいる。敗戦処理のマウンドに立つ人がいる。

 そのことの貴重さが、身に沁みるようになってきた。

 

 

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