田中槐『ギャザー』短歌研究社,1998年
「この坂」に「猫の死体がいつまでもある」という。「この」という言葉から、主体は坂が視認できる範囲にいるような気がする。「いつまでも」ということは、主体は幾度も猫の死体を目にしている(あるいはずっと目にし続けている)のだろう。
坂が現実のものか否かで読みの分岐がある。「現実の迂回路」が、〈現実に存在する迂回路〉であるならば坂は現実のものであろうし、〈現実からの迂回路〉であれば坂は非現実空間に存在する。
「猫の死体がいつまでもある」の「いつまでも」という措辞によって、猫の亡骸は回収もされず、もしかしたら腐敗もせずにそこにあり続けるというようなニュアンスが感じられ、どちらかと言えば後者の読みに傾く。主体は心象風景のような坂に、何度も入り込む。そこにはずいぶんと長い時間にわたって猫の死体が存在していて、主体はそれを視認し続けている。
一方で、坂を現実の坂として読むこともできる。迂回路なので、メインルートから外れた坂道。猫の死体は回収されることなくそこに幾日か存在している。迂回路という設定がその状況を担保する。主体はそこを時々通るのだろう。ある程度の期間、猫の死体が存在しているという認識が主体にはある。「現実の」と初句に付されことで、否応なしに〈現実でない迂回路である坂〉が想起される。いつまでも猫の死体が残っている「この坂」に非現実の手触りが感じられたのだろうか。あるいは、猫の死体の置かれていない非現実の坂が、主体の心象風景にあるのかも知れない。
一首を読んでいると「現実」とは何かわからなくなる。私が生きるこの世界を疑いなく現実だと思っているけれど、果たしてそうなのか。特に、現実を一首の歌に昇華したとき、その一首は現実なのだろうか。
前述の分岐は、あくまでも「現実の迂回路」という言葉の取り方の違いに過ぎない。一首には細分化された分岐がまだまだあるような気がする。「坂」は実際に存在する坂なのか、作中主体が実際に存在していると認識している坂なのか、作者の心象風景なのか、作中主体の心象風景なのか、といった具合に。そこでは、〈現実〉と〈非現実〉は絡み合い、うまく峻別することはできない。
「現実の」という、ある意味世界を規定する初句によって、世界は曖昧模糊としたものに感じられるのだ。この坂にいつまでも猫の死体があること、一首が規定する世界の中で、それだけが確かなことだ。
MILESを流して電話してゐたねふたりに響く「KIND OF BLUE」/田中槐『サンボリ酢ム』