ひと一人ひと生に使ふ水のかさ せきれいは小さく水を飲みそむ

池谷しげみ『蜩林』(雁書館  1999年)

 

 人は一生にどれだけの水を使うのだろう。飲み水、炊事、お風呂、トイレ、洗濯……。日本に住む人が上記のような用途で直接的に水を使うのは、一日200リットル以上だそうだから、一生では相当な量になる。ここ50年ほどを見ても、かなり増えているようだ。

 そしてもう一つ、バーチャルウォーター(仮想水)という考え方がある。これは、食べ物を輸入している国において、もし輸入せずに、それを自分の国で作ったとしたら、どのくらいの水が必要だったかを推定したものである。例えば、牛を育てるのにも相当な水が要る。牛肉1キロあたり20000キロもの水が必要なのだそうだ。つまり、牛肉を輸入したということは、生育にかかったその分の水を消費させたということにもなる。日本は、世界でも有数の仮想水輸入国であるそうで、それは一年に一人当たり50万リットル……直接的に使う水よりずっと多いらしい。

 だが、そういうことはあまり自覚されていない。人間が生きるために工夫してきた諸々のしくみが、いつか、大量の水の使用につながっていた。いくら慎ましやかに、節約しながら生きているとしても、多くの水の消費に加担してしまっている。

 

 ひるがえって、動物たちはどうだろう。「せきれい」は黒と白の、尾を上下に振る鳥。大きさは雀より少し大きいぐらいで、庭や、アスファルトの道路などでも見掛ける。『古事記』では、イザナギ、イザナミに夫婦和合の方法を教えた鳥として知られている。物怖じもせず、人が近付いても気にしない様子で、尾を振りながら歩いている。尾で道路を軽やかにたたくようにしているから、そんな風にチョンチョンと、からだを揺らし、わずかな水をついばむように飲むのだろう。わずかだな、ささやかだなあ、そんな感想が、「ひと」はどうだろうかという思いに繋がった。

 

 人間であるだけで多くの水を使う。どうあがいても、そういう存在に人間はなってしまった。冒頭の「ひと」、「ひと」、「ひと」の畳み掛け、少し怖くも思えてくる。

 一方、「せきれいは小さく」というところ、「ちさく」は小さく刻まれた三連符のようで、細やかな、わずかな飲みぶりをよく、体現している。

 

 

 もう人間は、大昔のようには戻れない。せきれいにもなれない。これは、人間を糾弾するための歌ではない。だが、小鳥がふと、考えさせてくれることもある。

 

 

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