栗を剝く人のうつむきあるときは知らずの奈落覗きつつ剝く

内山晶太『窓、その他』六花書林,2012年

栗を剥く人がいる。実際に主体の眼前に栗を剥くひとがいるのかはわからない。うつむきながら栗を剥く人は、あるときは奈落を覗きこんでいるのだとこの一首は言う。

栗を剥くのは面倒臭い作業だ。包丁で栗の下部にある硬い部分を切り落とし、めりめりと鬼皮を剥く。渋皮があらわになったら次は渋皮を包丁で剥いていく。鬼皮は硬いし、渋皮は栗にぴったりとしているし、栗は小さいし、難儀な作業だ。栗むき専用の器具や簡単に剥く裏技のようなものもあるが、ここでは包丁を使って、じりじりとオーソドックスな剥き方がなされている気がする。その印象は、栗を剥く俯いた大勢の視線の先に「奈落」が設定されていることと無関係ではないように思う。

栗を剥いている人は真顔で剥いているのだろうか。包丁を片手に栗を見つめ、集中して栗を剥いている様子は、言われてみれば鬼気迫るものがある。また、誰かと談笑をしながら栗を剥いているのだとしても、視線は栗に向かっているだろう。包丁に力を込めながら、栗に向けて笑いながらしゃべっている様子を切り抜けば、ちょっと怖い。地獄や異界ではなく「奈落」という語が選ばれていて、栗に一点集中しているその先に、深い暗闇が存在しているかのように感じられる。

〈知らずに奈落覗きつつ〉ではなく「知らずの奈落覗きつつ」栗を剥く。前者であれば、〈奈落だと気付かないまま奈落を覗きながら栗を剥く〉というような解釈に収斂する。その場合、奈落を覗いていることには気づいていないが、奈落自体は既知である手触りがある。「知らずの奈落」ということは、そこで想定されている「奈落」は未知のものであり、常套的な比喩としての〈奈落〉ではなく、深淵まで続く暗闇としての奈落が視線の先に存在しているような気がする。栗を剥く時に常に奈落があるわけではない。「あるときは」奈落を覗き、またあるときは視線の先に奈落は存在しない。

栗を剥く人は栗に一点集中する。たとえ誰かとおしゃべりをしていたとしても、栗を剥く瞬間は栗へと意識を集中する。主体はその視線の先に奈落の存在を感じる。秋という季節の中で、栗を剥くという行為を行い、さらになんらかの要素が組み合わされて顕現する奈落。一首を読みながら、そんな奈落を覗いてみたいような気もしてくるし、絶対に覗きたくないなと思ったりもする。ただ、気づいていないだけで、実はもうすでに栗を剥きながら奈落を覗いたことがあるかもしれないと思うと、背中がひゅっと冷たくなってしまう。

わが死後の空の青さを思いつつ誰かの死後の空しかしらず/内山晶太『窓、その他』

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