うつむきて髪洗ふときうつろなる背中をまるめ銀河にさらす

桝屋善成『声の伽藍』ながらみ書房,2002年

風呂場で身体を洗っているとき、それは一日の中で最大級に無防備な瞬間のひとつだろう。ましてや髪を洗っている瞬間は、視界も限定されるし、機敏な動きはできない。ここで背後を取られたらひとたまりもない。

初句の「うつむきて」によって主体のいまの状態が像を結ぶ。風呂場で髪を洗っている。シャンプーが泡立っていて、視界は不鮮明だ。そんな状況で、主体の意識は背面にうつる。

三句目の「うつろなる」は厳密に意味を取ろうとすると難しいのだけど、なんとなくわかる気がする表現だ。主体の意識は洗っている頭髪に向いている。背中のことなど通常は思いもしない。ただ、髪を洗っていて、ふっと背後が気になる瞬間みたいなものはあり得るような気がして、そこでシャンプーをしている時のうつろな背中の存在に気がつく。自分の意識がめぐっていない背中。そして、とても無防備な背中。

結句で一首のスケールは大きくなる。風呂場という狭小空間から銀河という無限定なものへ切り替わり、大いなる銀河と髪を洗う主体が対比的に描かれる。現実に即して景を想像すると、例えば背後に窓があって、夜空に向けて背中を晒しているみたいな情景も想像できるのだけど、〈夜空にさらす〉や〈窓にさらせり〉というような状況の伝達を意図する結句ではなく、「銀河にさらす」が選ばれているので、そのスケール感を楽しみたい。

銀河は主体の背中を見ても特に何も思わないだろう。おそらく気づきもしない。それでも、そんな大いなるものを主体は意識する。

一首は下句で現実から離れてしまうこともできた。「うつろなる」が「銀河」への助走として機能し得るので、「うつろなる背中」から直接詩に接続するルートや、「銀河」という飛躍に向けてさらに助走を続けるルートもあっただろう。だが、「背中をまるめ」という現実の描写が挟まることで、一首は現実を手放さなず、結句との落差も大きくなる。あくまでも、主体は入浴中に背後に銀河を感じたのだ。

日常の些事が、あくまでも日常の些事であることをやめないまま、遥か彼方に存在する大いなるものと接続することで詩が生まれる。言葉によって、入浴も詩的営みとなり得るのだ。

なかぞらに声の伽藍を建てむとし幾千の蟬啼きせめぎあふ/桝屋善成『声の伽藍』

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