奥田 亡羊『亡羊』(短歌研究社 2007年)
五行分かち書きの歌。
照明がフェードインすると、ステージには五人の役者。一人が一言ずつ台詞を発してゆく。この時、五人は一人である。同一人物を演じている。それが芝居のお約束だ。おそらくは最後に控える「九六歳」になった「女」が、自分の来し方を振り返っている場面。
人生には一六歳のときもあった。三二歳の時も。その年代の「女」を別の役者が演じる。そうしてみれば、確かにかつての自分は、もはや別な人間のようだ。確かにそこにいたのに、なまなまと生きていたのに、一体どこに行ってしまったのだろう。別の役者が演じることで、各年代のおのれというものが際立つ。戻ってはこないその時、その時が際立つ。
ここで観客に最も伝えたいのは、「あなたは~行ってしまった」ということだろう。「あなた」とは誰か。愛しい人? 大切な人? その想いをずっと九六歳になるまで抱えてきた。
この歌は「麦と砲弾」という一連にあり、そこには発話者としての兵士達や、「人あまた死にし野原」、「砲弾」という言葉も登場する。ゆえに、「あなた」は兵士となって、戦場に行ってしまったのかという予想も浮かぶ。それは確定できないところだけれど。
が、「あなた」という人がここから去ったきり、戻って来なかったことはわかる。
一生かけて人を待ち続けること。思いを抱き続けること。その時、人生は長い。だけど、人生は短い。
この歌からはそういうことが思われてならない。
もちろん、「金色の~木の実」あたりは、景気がいい感じがするので。〈あなたは一攫千金を狙って金を掘りに行ったきり帰って来ない。全くもう……〉というストーリーや、「山のうらへ」、「とうに」というところから、「山中他界」、つまり、〈亡くなった魂が山へと向かい、祖霊、氏神になっている〉というストーリーなども浮かんでくる。
そしてまた、五人は一人の人物を表していると解釈してきたが、戦乱というところからは、あまたの「女」が「あなた」を戦地へ送った状況を表しているとも読める。この時、五人は大事な人をどこかへ行かせてしまったあらゆる人々の象徴で、つまり、一六歳も九六歳も喪失感を抱えている。たくさんの、つらい状況にある人達がいるのだと。
一六、二四という数字は、適当に見えて八の倍数であるので統一感がある。 四〇歳からあっという間に九六歳に飛んでいるのが気になるが、確かに、後半生になればなるほど、時が過ぎる速度は増して感じられようか。
五行分かち書き。
五人の「女」。
私たちの内側にも、こういう五人は立っているかもしれないなあ。
行ってしまったあなた。
行ってしまった一生。
人生。あっという間の過ぎゆきである。