奥田亡羊『花』砂子屋書房,2021年
※「/」は改行。歌集では二行分ち書き表記
「黄昏に遅れてくらみゆく」は魅力的な表現だと思う。
沼が眼前にある。日が暮れてきて周囲はは赤みを帯びながらゆっくり暗くなってゆく。ただ、沼はしばらく明るさを保っていた。沼の水面は夕陽の輝きを返していて、より一層明るさを感じたのかもしれない。夕日がある程度沈み、陽光が落ち着いてから、はじめて沼の暗さを視認できたのだろうか。提示されている時差に納得感がある。
「口をひらいて人の名をよぶ」のは沼か否か、下句の解釈には大きく分ければふたつの分岐があるように思う。
三句目の「の」を主格で取って下句につなげれば、口を開くのは沼だろう。上句の描写では、沼は暗くなっていくので、どちらかと言えば口を閉ざすイメージの方が近しいように思う。水面と「口」は重なり合う部分がある。暗さを帯びてゆく沼の水面が、すうっと開いて誰かの名前を呼ぶ。民話の一場面のような、荘厳さと不穏さがある。
一方で、「の」で軽く切れていると取れば、「口をひらいて人の名をよぶ」のは必ずしも沼ではなくなる。沼を眼前に据えている作中主体かも知れないし、主体ではない第三者かも知れないし、もしかしたら人間ではない獣や樹木かも知れない。「の」で軽く切れていたとしても、上句が醸し出す空気を下句も帯びる。上句の空気感のようなものが、ある程度、ガチガチのリアリズムの外側の解釈を許容するような気がする。
また、口を開くのは沼で、人の名を呼ぶのは主体というような可能性もある。現実に還元する形で景を想像すれば、石切りのような感じで沼に小石を投げ込みながら、一緒にいるひとの名前を呼ぶというような場面があり得るし、もっと幻想的な解釈もあり得るだろう。
一首は二行分かち書きにされているので、「の」で切って読み、沼ではないものが口をひらく解釈に誘われる。ただ、上句からただよう非日常感によって沼自体が口を開く解釈へのルートも存在する。「人の名をよぶ」という結句では、「人」という抽象度の高い語が選ばれていて、どこか人ならざるものの発話のようにも感じられる。
解釈はひとつに収斂しないのだけど、どの解釈を取ったとしても、それ以外の解釈が滲む。主体が声を発していたとしても暗さを帯びてゆく沼と呼応しているような気配がするし、沼が口を開いたとしてもそれをみているものの気配がある。
たそがれ、誰そ彼、夕暮れ、夕方、暮れ方と、時間を提示するだけなら、初句には無数の選択肢があるが、「黄昏」という語には人生の盛りを過ぎたというような含意があるため、寂しい感じが滲みひと気の無い森の奥の沼が想起される。
「黄昏」、「くらみゆく」、「沼」、「人の名をよぶ」という語の斡旋により、一首からはさびしさや、人恋しさのようなものが想起される。だからこそ、発話主体が誰であれ、「人の名をよぶ」行為が切実さを帯びて読者に迫ってくる。
宛先も差出人もわからない叫びをひとつ預かっている/奥田亡羊『亡羊』