つよい国でなくてもいいと思うのだ 冬のひかりが八つ手を照らす

中津 昌子『むかれなかった林檎のために』(砂子屋書房  2015年)

 

 この歌は本当に、折に触れて意識にのぼってくる。

 

 「つよい国」とは何だろう。経済的に、軍事的に、技術力の高さにおいて、資源の豊富さにおいて……。あるいは、支配者の力が行き渡り統制がとれている国、民の一人ずつがたくましく雑多なエネルギーを有する国……。さまざまなつよさがある。

 

 「つよい国でなくてもいい」、主体はそう思っている。つよい国が嫌だというわけではない。「でなくてもいい」のだ。

 つよくあるというのは大変なことである。つよくありつづけるのは、相当に難しいことである。それには努力が必要だ。すると、時に、無理や犠牲が生じる。自然にスムーズにつよいならいいけれど、それを求める時に、捩じ曲がってしまうものや零れてしまうものがあり、そこを主体は危惧しているのだろう。「国」というと、実体のない大きな像に見えるが、その実は、人間一人ひとりが支えているものだから。人を苦しめる形での、過度な無理は要らない。

 

 ただし、そこは声高にではなく、「てもいい」という柔らかな仮定と、「のだ」というつぶやきの中に表明されている。そうして、一字空けの後の風景描写と取り合わされている。そこに、この歌の良さがある。

 

 「八つ手」の葉は大きい。文字通り、手を広げたような形で、切れ込みがある。八つ手の手は何かを求めているだろうか。いや、そうは思えない。静かなのだ。季節は冬まで来て、今、ひかりが、静かに葉を照らしている。満たされている。これを乱す形でいったい何を求めるというのだろう。知足  足るを知る。力が漲っていた時期を思えば少し淋しいかもしれないが、夏のようにギラギラしなくても、もう充分なのである。

 

 つよい国であろうとする国  例えば今なら、ロシアを思う。また、アメリカを思う。中国や北朝鮮なども。

 そして日本。防衛の問題を抱えている。また、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた時代もあった。日本はどこへ行くのだろう。どんな国を目指すのだろう。

 この歌はいつも新しい。置かれたその時々に合わせ、微妙に解釈や想定を変えつつ、深いところへ呼びかけてくる。

 

 と、では、「つよい国」の反対はと考えたとき、それは必ずしも「よわい国」ではないだろう。

 「つよい国」の反対の一つは、「そこそこの国」。そこそこでも満ち足りているなら充分だ。

 そしてもう一つは、別な価値観を尺度とする国。例えば、「しみじみ美しい国」、「ほっとする安心の国」、「幸せを感じられる国」……。この上句は、そういう、「つよい」とは異なる価値観を見出して行けという、メッセージとしても読める。

 

 冬のひかりを眺めながら、国の行先を考える。

 

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