誰にでもある思い出を聞きながら新潟県の夜を歩いた

青松輝『4』ナナロク社,2023年

「誰にでもある思い出」という把握が印象的だ。
「聞きながら」とあるので、主体は他者の思い出話を聞いているのだろう。他者が実際に隣を歩いているのか、離れた場所にいて電話で話しているのかはわからない。これが〈私にもある思い出〉であれば他者と主体の交感に収斂するだろうが、一首においては「誰にでもある」というもう少し突き放した表現が選ばれている。その「思い出」が語られているので、おそらく話者とってはその思い出に一定の意味があるのだろうが、主体はそれを個別具体的なものとして感受してはいない。

「誰にでもある」の「誰にでも」は範囲の曖昧な言葉でもある。「誰にでも」とは言いつつも、必ずしもあまねく全てのひとが妥当する訳ではないだろう。「誰にでもある」という修飾節はその「思い出」が没個性的であることを意味している気はするが、〈つまらない〉とか〈オチのない〉とか〈無個性な〉などよりもネガティブ度合いが低く、そして主体と話者のなんらかの近親性を感じさせる。
大学受験の思い出がありふれているのは大学進学者だけだし、恋愛においてフラれた思い出を持つためには圧倒的恋愛強者ではない必要がある。年配の方にとっての給食が楽しみだった思い出や好きな人に連絡をとるのに緊張した思い出なんかは、若い人にとってのそれと本質的には同じだとしても、内実はずいぶんと違うだろう。他者の「思い出」を「誰にでもある」と断じるためには、そこには何らかの共有可能な枠組みが存在するように思うのだ。

「新潟県」が妙に具体的だ。〈夜の新潟県〉ではなく、「新潟県の夜」という語順が選ばれていて、新潟県へ不思議な負荷がかかる。〈夜の新潟県〉を歩くのであれば昼の新潟県が想起されて旅行に来ているような印象が浮き上がるが、「新潟県の夜」という言い回しの裏側に張り付いているのは新潟県ではない場所の夜のような気がする。普段生活している場所(新潟県である可能性もあるが)の夜が一首の反対側にあって、新潟県に立っているこの今が強く感じられる。
もちろんに、その「思い出」が新潟県に起因していて、イメージの上で「新潟県の夜」を歩いている可能性も無いではないが、「誰にでもある思い出」という前提によって、この回路は随分と狭い。

誰にでもある思い出を聞きながら新潟県の夜を歩く、そのエピソード自体からは少しばかり特別な印象を受ける。一首では「誰にでもある思い出」と「新潟県の夜」が対比的に描かれているように思うが、「誰にでもある思い出」を聞いている事実によって「新潟県の夜」がより特別なものとなるような気がするのだ。

君たちにたしかな終わりが来るまでの空気が透明なら抒情せよ/青松輝『4』

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