永田 和宏『日和』(砂子屋書房 2009年)
これは自分のことであるが、今、毎朝毎夕、大変な数の雁や白鳥の群れが上空をよぎっている。私が住んでいる町には、多い時で雁が十七万羽以上飛来し、白鳥や鴨もたくさん来ていて、これは人の数よりずっと多い。稲作地帯なので、昼間は刈り取り後の田んぼで落ち穂を食べ、夜はねぐらである沼に帰っていく。朝の飛び立ち、夜のねぐら入り。壮観だ。空全体が鳥で埋め尽くされる。
鳥たちはシベリアから渡ってくる。実に4000キロ。この鳥の渡りのメカニズムが驚異的なのは知られているけれど、本当に何ということ、生きるために隊列を組みながら果てしない海の上の道を辿ってくるなんて。
鳥は長く飛べる仕組みを備えている。そのように進化を重ねてきた。からだまでも変える本能、種としての試行錯誤による技術の習得、すごいものだ。
さて、渡りを行う鳥には水鳥も多い。「水鳥」 そのような鳥たちのからだのなかに、さらに「水」があるという。それが「水平」を保っているという。この水は、例えば胃の中のものであるとか、飛行に必要な水であるとか、そういう実際的な水というよりは、もっと感覚的に把握されたものだろう。真っ直ぐに美しく飛ぶためには、やはり、その内の水が波立ち、乱れていたのではうまくいかない。すーっと飛ぶ。自身も空も乱さぬようにすーっと。上昇しても下降しても常に水は静かで、いとも容易く平衡がとれてゆく。滑らかなからだの動き、そういう様子を、直感として「水」として掴んだのだ。
重力の作用もあるのだろうか。作者は科学者なので、そういうものの見方は常に働いているだろう。水平をとる力、その明快さと美しさ、それを良しとする感覚があるのだろう。
歌には「水」という字が三つも入れ込まれていて、まさにみずみずしい。その「水」は空に浮かんでいる。冷たく澄んだ、締まる冬の空に。
この「水平を保てる水」の「水平」とは、つまりは水面である。まるで、湖面の、川面の、沼の面の、静かなそれである。水鳥のからだの中に、冬の水辺の風景がある。マグリットの「大家族」という絵 鳥のシルエットの中に雲の浮かぶ青空がある ではないけれど、鳥のその内に広い広い景色を思い描くこともできる。
結句の「冬の空」は、鳥が行く空でありながら、鳥が目指す、鳥の夢であるかもしれない。