死ぬものと死なないものに分けていく思考に鳥が座礁している

江戸雪『空白』砂子屋書房,2020年

「死ぬもの/死なないもの」は独特な二分法だ。生命があるものは死ぬし、そうではないものは死なない。「死」を生物学的に限定して用いれば即座に解決しそうな気がするが、考えはじめると一筋縄ではいかないような気がしてくる。

例えば、太陽は死ぬか。
人間が死ぬというような意味では死にはしないような気がする。ただ、五十億年後にはそのガスを燃やし尽くし恒星としての活動を終える。それは、〈寿命〉とか〈死〉として表現される。
テレビゲームのセーブデータが消えればキャラクターの死を感じるし、大切にしていたコートが駄目になったら死に近いものを感じる。そこには生命の有無では割り切れない何かがあるような気がする。

では、死者はどうだろうか。死者は死なない気がする。ただ、その死者を覚えている者がいなくなればどうだろうか。死者がこの世に存在したことが消滅した状況が認識できるものは誰ひとり存在しない状況。そんなことを考えれば、それは死者の死と言えるかもしれない。

そうやって、「死ぬものと死なないものに分けていく」と思考はショートしてしまう。下句では「座礁」という語が使われているが、座礁するのは思考ではなく鳥だ。しかも、鳥は思考に座礁としている。「に」のとり方によっては、「思考」は座礁した場所にも、座礁した原因物にもなり得る。

解のみえない混沌とした思考に座礁することはありうるような気がする。一般的に座礁するのは船や鯨のような水のものだろうから、鳥はまずは水鳥のようなものを想像するが、像を結んでから、「思考」はそんなわかりやすいものではないような気がしてくる。「思考」は世界にあまねく満ちていて、「座礁」するようなポイントも随所にあり、そこでは本来なら座礁するはずのない鳥が座礁している。
「思考に鳥が座礁している」は魅力的な下句だと思う。

一首の背後にはこのような思考にいたる過程があり、このような思考にいたった主体が存在する。この一首でいう「死」は必ずしも生々しい死ではないような気がするのだけど、一首の背後には切実な「死」が潜んでいる。
一首を読みながら、そんなことを思う。

この世には釦の数だけ穴がありなのにあしたの指がこわばる/江戸雪『空白』

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