河野美砂子『無言歌』(砂子屋書房 2004年)
人が音を感知できる範囲は決まっている。音の高低で見れば、 20Hzから20000Hzまでだそうだ。年をとれば、その域が狭くなっていく。高周波のモスキート音が聞こえるかどうかのテストが流行った時もあった。一般に、若い人ほど聞こえるらしい。さらには、より高い超音波も、イルカやコウモリにはわかるようなので、気付かないだけで、本当はもっともっとこの世には、さまざまな音が満ちているのだろう。
こちらの歌の「どこからが音であるのか」は、音が生まれようとするその瞬間の判定の微細さを言っている。「鍵盤」はおそらく、ピアノのそれである。ピアノの音は鍵盤を押し下げれば鳴るけれど、鼓のように直接、音の出るところを叩くわけではなく、鍵盤から別の部位に力が伝わり、さらに伝わり、終いにハンマーのようなものが弦を叩く。だから、鍵盤に触れてから音が鳴るまでには、わずかだがタイムラグが生じる。
もちろん、それはごく小さいもので、一般の人は意識すらしない。しかし、この主体には、その力の作用が音へと変化する瞬間がわかる気がするのだ。
それは、ごく短い時間のことなのに、引き延ばされた永遠の時間のようである。また、力が伝わるのはごく短い距離なのに、はるかな旅のようである。とても繊細な聴き分け。音以前の気配を、耳が、いや、身体が、今聴こうとしている。
そして、下句、「一本の指のおもさが鍵盤になる」という、この言い方にも注目したい。そうか、「おもさ」なのか。驚き、得心した。指で押したり叩いたりというよりは、その重みを鍵盤に預けていくような、弾くとはそういうことなのか。これは、ピアノに触れ続けてきた人が掴んだ実感だろう。
身体的な気付きが、はからずも表れている箇所である。
さらに、指のおもさが「音」になるのではなく、「鍵盤」になるというところ、ここも興味深い。指が鍵盤に沈み込む、溶け合う、一体化する感覚だろうか。理屈でわかろうとすると難しいが、一読、その感触がこちらの身体へも及んでくる、そういう歌でもある。
作者はピアニスト。
音を探究する人の、思索である。