渡英子『夜の桃』砂子屋書,2008年
一斗缶やドラム缶のようなものを使って焚き火をしているのだろうか。缶の開口部から炎がチラチラと見える。夜に行う焚き火。一年を振り返っている感じがあるので、年末に行う冬の焚き火だろう。冬の夜の焚き火は暖かく、暗闇に揺れる炎が美しく感じられる。
一首はぎゅっと省略の効いた缶焚火の一語からはじまり、下句のやや観念的な描写にいたる。現実から想念へ、詰まっている印象のある上句から余白の感じられる下句へと展開としていく。
一首は缶からあがる炎を「舌」に見立てていて、この擬人表現はいくらか唐突でやや奇矯な印象受けるのだけれど、缶での焚き火という景を想像すると納得出来る。例えば一斗缶で焚き火をしているとすれば、缶の中に存在する薪などの熱源は可視化されない。横から見えれば、暗い角柱の上部から炎がちらちらと見えるだろう。「ほのほの舌」という表現は炎全体を舌と見立てているのではなく、あくまで缶から飛び出して見える部分のみを「舌」と呼んでいて細やかだ。それは、「舌」という比喩の成立を保証していると同時に、下句への展開を円滑にしているように思う。
そんな炎が照らしているのは「今年の死者」だという。一年という区切りを目前にして、「今年の死者」が思い浮かんでいる状況には納得感がある。死者は、特定の近しい個人かもしれないし、無数の人かもしれないし、著名人かもしれない。いずれにせよ、夜に行う焚き火がどこか今年の死者への鎮魂の儀式のように感じられる。缶焚火という実用的なものから、「ほのほ」、「夜」、「死者」、「照らす」という語の連なりによって、一首の空気がどこか厳粛なものへ切り替わっていく。
冬の焚き火は暖かい。ただ、焚き火がぬくめることができるのは人間の一部分でしかない。手をかざせば手は暖かいし、近づけば体の前面や顔は火照るように感じられるが、背面は冷え冷えとしたままだ。同様に、暗闇から浮き上がる「今年の死者」も、焚き火の炎が照らすことができるのはほんの一部分でしかないだろう。ほのかに照らされている死者のそのひとらしさだと思う部分が、主体からは見えているような気がする。
焚き火はやがて消えてしまう。当たり前だが、夜は明けて朝になり、年はあらたまる。この夜に照らすことが出来ていた死者も、そのうち照らされなくなったり、認識できるものが減ったりしていくだろう。こうしている間にも、新たな死者は絶え間なく増えてゆく。「今年の死者」という語は、一首の季節感や死者の内実を暗示するが、それ以上に死者の限定として強い意味を持っているように思うのだ。
言葉あればわれ在ると思ふみづを搬ぶ雲のしづかな時雨となれば/渡英子『みづを搬ぶ』