齋藤 芳生『湖水の南』(本阿弥書店 2014年)
今、「あなた」が遠い。「遠い遠い」という畳句により、自分とあなたとの隔たりのどうしようもなさが、じんじんと伝わってくる。
その遠さは距離的なものだろうか。例えば、異国の容易くは行けない場所への。それとも、時間的なものだろうか。あなたはすでに亡くなっていて、会うことができない人で。あるいは、心理的な遠さだろうか。もっと向き合いたいのに、自分を見て欲しいのに、思って欲しいのに、そういう風には、なれていなくて。
「遠い」というのは、つくづく膨らみのある概念だと思う。
そんなあなたに対してできることは 。主体は、雪の降る川面に、はだかの指を触れて帰って来た。この「はだかの指」という表現が鮮烈だ。指はそもそも、何もまとっていない。「はだか」である。だが、それをわざわざ言うことで、この指が、自分そのもの、さらに言えば、剝き出しの自分のいのちであるような感じが、瞬時にしてくる。それを、雪の降るごく冷たい川に触れさせるのだから、これはひとつの覚悟である。または、儀式のようなものである。
この「川」はあなたと自分を隔てる境界でありながら、双方を繋ぎうるよすがでもあるのだろう。あなた自身に触れることはできない今、とれる唯一の方法。それでいて、水に触れることは、あなたを諦めるための術でもあろうか。何かこの行為には、アンビバレントなものが感じられて。
そして、この歌の興味深さは、結句の「帰り来」まで詠んだところにある。歌としては、「はだかの指を触れ」たところが一番の高潮の部分であるので、ここで仕舞いにしてもいい。しかし、その後の帰って来たところまでが詠まれ、しかも「帰り来」という飾りのない収め方……。「かえりく」 カ行の音が、こつこつと響く。上句に、「遠い」の繰り返し +「あなたよ」という情感たっぷりな呼びかけがあるので、なおさら、この結句の簡素さは印象的だ。諦念のような、寂寞のような……。この歌の中心は「帰り来」、その時の心持ちにある。
歌の抑揚が、内容と深く働き合っている一首なのだ。
もう一つ、これは突拍子もないかもしれないが、あなた=川という捉えもあるのではないか。かつて親しんだ川には、その安らかだった時代には、戻れない、戻せない。遠いのだ。
できるのは、せめてその面に触れること。
その時、雪の川はやはり冷たかっただろうか。思ったよりも、温かかっただろうか。