眠りより身を引き抜いてけさ過ぎし雨に濡れたる芝を踏みたり

大辻隆弘『汀暮抄』砂子屋書房,2012年

一首が提示する意味としては、起床して濡れた芝の上を歩いているというシンプルなものだ。ただ一首の中で、時間がギュッと圧縮されていて、不思議な読後感が残る。

「眠りより身を引き抜いて」は納得感がある表現だ。まだ眠りたいという欲求をなだめて、朝だと納得させて布団から出る。「引き抜く」という語の斡旋からは、その難儀さが強く滲む。「引き抜く」のは主体だが、引き抜かれるのも主体。眠っていたいという本能に忠実な主体と、起きて出かけなければいけないと考える理性的な主体の葛藤の末に、理性が勝利したのだろうか。ただ、「引き抜く」という動詞からは理性の勝利が辛勝だった感じがして、妙に納得してしまう。

ただ、そんな理屈をつけなくても、「引き抜く」という措辞には直感的に納得させる力がある。起きるかどうかという朦朧とした感覚の中で、夢からうつつへと転換するタイミングでかかる負荷は大きくて、確かに引き抜くよな、と思う。引き抜く場所が「眠り」からであるのも、「引き抜く」という動詞に物理的な負荷と抽象的な負荷とをかける。

「引き抜いて」からの一首の展開は早い。「て」で順接に芝を踏む場面に展開するが、その間には当然、顔を洗ったり、歯を磨いたり、服を着替えたりという動作があろうが、それらはみな省略されている。初句二句の時間も現在形で、下句もまさに今芝を踏んでいる感じがする。さらにその時間の流れに今朝降った雨の記憶が挿入されることで、時間の経過がやや複雑になる。
雨が降ったタイミングは細かく検討するといくつもの分岐があるが、明け方にうつらうつらとした状態で雨の気配を感じたというような状況をイメージした。主体は芝を踏み、芝が濡れているのに気づき、夢うつつの中で感じた雨の気配を思い出し、眠りから自分を引き抜いたのを思い出したのではないだろうか。〈降りし〉ではなく「過ぎし」という動詞の斡旋も気配を感じただけであるような印象をいくらか強める。

一首は「踏みたり」という動詞で終わるが、芝を踏む主体と、眠りから引き抜く主体には微かなズレがある。芝を踏むのは紛れもなく主体以外の何者でもないが、前述のとおり引き抜くのも主体なら引き抜かれるのも主体だ。

朝の感じというのおおむねこのようなものな気がする。ばたばたとした朝のルーティンは半ば無意識に行われ、そのひとつひとつが記憶に残るようなものではない。主体も、濡れた芝を踏む段になって、はじめて完璧に目を覚ましたのかもしれない。

意識の溶け合ったぼんやりとした夢の世界から、現実の世界への移動が毎日行われているのを思うと、少し不思議な気がしてくる。その移動距離は時にどんな旅よりも長く、それでいてその移動は一瞬だ。一瞬なのだけど、夢の気配はしばらく揺曳している。

十代のに見えざりしものなべて優しからむか 闇洗ふ雨/大辻隆弘『水廊』

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