柏原 千惠子『彼方』(砂子屋書房 2009年)
私の幼い頃の話になるが、皸の切れた手を持った大人は身近にたくさんいた。母もそうであったし、近所や親類の、仲良くしてくれていた大人たちもそうだった。
そんな手を羨ましいと思っていた。そして、子どもながらに、何の労働もしていない、つるんとした自分の手に後ろめたさを感じていた。
大人たちはよく、「ももの花」というクリームを塗っていたので、そのピンク色の容器に憧れていたせいもあっただろうか。
「皸」は、冬になると手や足の皮膚ががさがさに荒れて裂けるものである。それを「皸が切れる」と言った。本当に亀裂が入ったようになる。「あかぎれ」とも言うが、そちらは、切れた皮膚の内部が赤く露わになったり、出血したりするところからの名前だろう。どちらも、皮膚の状況に即した生々しいネーミングだ。
冬には汗をあまり掻かなくなるし、湿度が下がるので肌が乾燥する。冷たい風もそれを助長している。だから、水を使う外仕事などをすると、てきめんだ。水気と一緒に、手の水分も蒸発してしまう。
今では、大概の家事労働は機械がやってくれるので、「皸といふ皸」と言えるほどに、たくさん皸の切れている人は、昔に比べれば大分少ないのだろう。お正月を迎えるための大掃除もロボット掃除機が水拭きまでやってくれる。洗濯は手洗いどころか、濡れた洗濯物を干しに外に出ることすらない。食器も食洗機。お風呂も自動洗浄。白菜の漬物を外で大量につくることもない……。
この一首は少し前のものであると同時に、長く、「皸」の切れた時代や時間を過ごしてきた人の歌であろう。「○○というものか冬の夜」という言い方は、経験からの発見、そして、定義付けである。「か」は詠嘆。冬の夜を、皸にワセリンを塗りこむ時なのだなあと捉えているのだ。
さて、塗りこむのはワセリン。ワセリンは、軟膏などに使われる油だが、「皸といふ皸」に、しかも「塗りこめ」るのだから、ここには勢いがあるというか、対決姿勢が見られるというか、皸も皸でたくさんあるのだけれど、それに負けないぞという気合いが感じられてくる。そして、塗りこめば 「立ち直りゆく」ことができる。
この歌を読む時、いつもここで、ああと思う。「立ち直」るという言葉の選びに励まされる。「立ち直りゆく」からは、単に手足の皸が治る以上のものを感じる。心も含めた、もっと大きいもののことを。
冬の寒さの中にも新たな芽が準備されているように、私たちの治癒力がきちんと働けば、きっと整ってくる。ワセリンのパワーで、夜のパワーで。細やかな傷も、血が滲んだところも、きちんと手入れをして眠れば、きっと大丈夫。その可能性とたくましさを、希望のように思う。
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この一年、「日々のクオリア」でたくさんの歌を読ませていただきました。ありがとうございました。