わたくしを追ひ抜いてゆく足たちのああまた季節がよぎりたる音

梶原さい子『ざらめ』青磁社,2006年

この一首を読むとき、取り残されている感じが妙に強くて、少し不思議な印象を受ける。「わたくし追ひ抜いてゆく」や「過りたる」という措辞から、動作主体である「足たち」や「季節」が主体を置いて去っていくという認識が伝わってくる。「また」とあるので、その認識は幾度も繰り返されたものだが、感嘆詞「ああ」の挿入によって、主体はそのことに心が揺らいでいるのがわかる。

まず「足」という具象が提示される。ただ、「足たち」と複数形にされていて、どこか足の持ち主である人の顔は浮かんでこないように思う。少し抽象的な「足」だ。結句の「音」は足音だろうか。季節の経過が「音」に結びつく把握が面白い。

一首の前には、「金曜の職員室の水盤の花びら どこへもいけぬ美しさ」や「掃除用ロッカーの中置きざりの雑巾に青白き熱あり」といった教員としての職業詠が配されていて、その文脈で解釈することは可能だ。
実景か心象風景かはわからないが子供たちの足音が主体を追い抜く。春が来れば卒業を迎えて学校を出ていく子供たちと、教師として学校に残り続ける主体は対比的だ。「ああまた」という感嘆にも納得感があるし、去ってゆく子供たちを「季節」とした把握も鋭い。春休みの静かな教室で、あるいは卒業や学期末直前の賑わいの中でこのような感慨は導かれ得ると思う。「足たち」の抽象度が高いのも、誰か特定の個人を念頭に置くというよりは、学校にいる子供達という抽象的な把握によるのかもしれない。

これはとても納得できるのだけど、一首を抜き出して読むときには、職業詠という文脈には縛られなくてもよいかもしれないなとも思う。また、完全に文脈を固定すると、一首の取り残される感じが中途半端にしか回収されないようにも思う。

「足たち」がただ主体を追い抜いていく。その光景を目にしているというよりは、そんな気配を強く感じている。その足音は季節が過ぎてゆく音だ。「ああまた」とあるので、主体にはそれは既知のことだ。そして、主体はそこに取り残される。
具体的なイメージは必ずしも伴わないのだけど、主体の感情の揺れは強く感じる。残されることはさびしい。ただ、そうは言っても生きていかなくてはならない。抽象度を上げることで感情の揺れが伝わってくるように思う。

季節は不可逆的に過ぎていく。過ぎてゆく時間に対して、とどまり続けることはできない。ただ、取り残される、という感覚を持つことはある。物理的に取り残されるわけではないのだが、どんどんと置き去りにされていくような感覚があって、それはそれはさみしい。

一首が切り取った感覚には普遍性が宿っているように思う。

ごくわづかごくわづかづつつよりゆく光の中を今年が終はる/梶原さい子『リアス/椿』

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