死ぬまでに看取るすべての花束でいまはあなたの手をふさぎたい

笠木拓『はるかカーテンコールまで』港の人,2019年

一首が伝える意味の芯の部分にあたるのは、〈花束であなたの手をふさぎたい〉だろう。芯の部分も素敵なのだけど、既存の構文めいた印象がないではない。この部分に付された、「死ぬまでに看取るすべての」と「いまは」という二つの限定によって、一首としての強度を得て屹立しているように思う。

「死ぬまでに看取るすべての花束」はまず第一には量を表しているだろう。たくさんの花束やとんでもない量の花束といった抽象的な表現よりも多くの量を想起させ、具体的な数量を提示するよりもはるかに詩的な表現だ。類似の表現として〈この街中の花束〉や〈世界中の花束〉といったものもあり得るが、どこか一首の表現に比べ類型的で弱い。何よりも、「死ぬまでに看取るすべての」という限定には時間が含まれる。
「死ぬまでに看取るすべての花束」を、〈人生において自分の手元に来て、枯れてしまうまでを見届けるすべての花束〉くらいの意味にとったが、この表現はそれ以上のものを含んでいるように思う。
これから手にする花束を渡す行為は花束の前借りであろうし、主体が手にする花束は主体が得る栄誉の付属物である場合も多くあるだろう。それらをみな、あなたに渡すのだ。そこには、あなたに向けた思いが溢れている。

「いまは」という限定は少し不思議な区切り方だ。上句で提示された主体の人生を覆う時間に内包される〈今〉が、すっと切り出されているような印象がある。同時に、主体とあなたとの時間も照らす。「いま」には「あなた」が含まれ、未来や過去の一部にも「あなた」は存在するだろう。「は」という助詞の働きによって、今ではない時間が浮かび上がる。

「死ぬまでに看取る」という表現は不穏さを含む。そこには自分の死と他者の死が併存する。死ぬのは主体であり、看取るのも主体であり、看取られるのは他者だ。一首が提示している看取る対象は花束だけど、どうしても誰か人間の死を想起させる。それは「あなた」が念頭にあるのかもしれない。花束自体が、いくらか死や病に近いところにある。

一首が提示しているのは願望であり、観念に過ぎない。だけれども、大量の花束がぼんやりと像を結ぶ。その光景は荘厳であり、輝きに満ちている。

ゆうやみの横断歩道を渡りゆくどの手もやがて灯をともす手だ/笠木拓『はるかカーテンコールまで』

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