岡井 隆『馴鹿時代今か来向かふ』(砂子屋書房 2004年)
「おのもおのも」 おのおの、それぞれという意味である。『古事記』にも用いられている古式ゆかしき言葉から、一首は詠い起こされた。私もあなたも「雀のとき」を耐えているという。「雀のとき」 どんな「とき」だろう。「雀のとき」があるなら、「カラスのとき」や、「白鳥のとき」もあるのだろうか。いや、雀の小ささは、いかにも「耐」えるにふさわしい。羽根を膨らませ、風や雨や寒さの中にじっとしている。そして「雀」には、「おのもおのも」とのイメージの親和性もある。庶民としての、平凡で地味で地道な無数の存在が耐えているだろうことが、浮き上がってくる。
下句に移れば、その耐える様子が、より鮮明に見えてこよう。「羽根に砂粒をつぶさに塡めて」……充塡、装塡の「塡」からは、砂の一粒一粒が、いかにもしっかりと食い込んでいることが伝わる。
歌のつくりとしては抽象→具体へ。そして、「塡めて」の言い差しが、砂粒をズームアップしたままに、画像を停止している。塡まっていることが、いつまでも印象に残る。
本来、雀は砂浴びが好きで、自分から穴を掘りつつ砂に体をこすりつけている。そして、羽根を砂だらけにしていることもある。しかし、ここで作者は、雀を耐えるものとして捉えた。そういう「雀のとき」があると捉えた。この時、そんな心の方向性があったことを思いたい。おのもおのも、そうなのだと。雀は人間の顔をし、人間は雀の顔をしている。
一方で、繰り返しの調べの妙を味わえる歌でもある。上句の「おのもおのも」。下句では、砂粒とつぶさ。「さつぶつぶさ」が、ひっくり返りつつ絡み合っている。何やら、呪文めいてくる。
今年は雀の数が少ないという声もある。酷暑の影響だと。どうだろうか。ならば、雀はどこで耐えているのだろうか。