三〇歳を抜けたる先の麦の穂のなんて壮大なボーナストラック

平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』本阿弥書店,2021年

三十歳の主体がひとつ歳をとる間際だろうか。語彙のひとつひとつが必ずしも加齢という現象とぴったりと合致してはいないような気がするのだけど、妙に魅力的に感じられる。

「抜けたる」から「麦の穂」にいたる流れが独特だ。抜けるという動詞の斡旋が微妙に個性的で、〈終える〉や〈過ぎる〉などの動詞よりも三十一歳を迎えるまでに紆余曲折があった感じがする。ゆったりとした初句七音からはじまり、「抜けたる先の」で定型に回帰する。ここで少しドライブがかかる感じがあって、ようやく抜けた!というような印象を受ける。

抜けた先には「麦の穂」が提示される。二句目の段階では抜けるのは時間であり、あくまでも観念上の「抜けたる」だったのが、「麦の穂」の登場によって実際に動作を伴った印象が生まれる。長いトンネルのような場所を歩いてようやく外が見えると、そこには一面の麦畑が広がっていたかのように。

三句目は〈あかるさの〉や〈きらめきの〉というように観念上の「抜けたる」のまま下句に至るルートもあったが、作者はそれを選択しない。あくまでも三十歳を終えることは、観念上の話ではすまないとでもいうように。
一首は「たる」を完了でとるか存続でとるかで、三十一歳に達しているか否かが変化するのだけど、「麦の穂」の存在が明示されているために、その差は麦の穂のすぐ近くにいるか、少し離れた場所から視認しているかの差でしかなく、さほど気にならない。誕生日になったからといって、大きな変化が生まれるわけではない。そういえば、法的に年齢が加算されるのは誕生日の前日だ。一首を読むと、加齢というのは不思議な概念だなと思う。

三十一歳に至ることは、「麦の穂」を見つけるこであり、そこは「ボーナストラック」だという。豊穣な実りがあると同時に、メイン部分は終わってしまったのだろうか。ただ、そのボーナストラックは「壮大なボーナストラック」だ。主体はその壮大さに感嘆している。そこに悲観はない。

一首を読みながら、27クラブのことを思った。27クラブは二十七歳で亡くなったアーティスト、特にミュージシャンの一群を指す呼称だ。ジム・モリスンやジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、カート・コバーンなどの名だたるミュージシャンが二十七歳で亡くなっている。彼ら彼女らは輝かしい実績をあっという間に積み重ねて、早すぎる死を迎えた。自身の死をも含んで作品世界は完結してしまっているのだけど、円熟した演奏を聴いてみたかったと思ったりもする。

三十を過ぎ、自分の死が夭折と呼べなくなってくると、自分に残された時間が余生と思える瞬間がたしかに存在する。それを「壮大なボーナストラック」と思えば、生きていくしかないなと思うことができる。たしかにそんな気がするのだ。

海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した/平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

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