人間はひとつの不潔なる川ともたるる窓に夕茜燃ゆ

阿木津英『天の鴉片』不識書院,1983年

川はそれ単体では完結しない存在だと思う。川の水は絶えず海を目指して流れ続ける。方丈記の冒頭ではないが、水は循環を続け、その内実は絶えず変化を続ける。川は、海のような独立した一個の世界には擬されず、循環の過程として存在する。

一首は人間を単なる川として規定するのではなく、「不潔なる川」だと言う。決して清潔な川ではない。ただ、〈汚れたる川〉というような表現ではない。ダイレクトに汚水が流れているというよりは、「不潔」という語はもう少し精神性の不浄さを想起させるような気がする。

完璧に清浄に生きていくのは難しい。水清ければ魚棲まず。生きていく中でいくらかの汚れは必要なのかもしれない。また、時に清濁を併せ呑む必要もあろう。本質的に人間は「不潔」なものだ。「ひとつの不潔なる川」という時、人間という種がひとつの川なのか、各人がひとつの川なのか。前者であれば各人は実態の無い一滴の水として不潔なる人間を生きていることになろうし、後者であれば各人が不潔さを抱えて生きている。

主体は窓にもたれかかっている。窓の外は夕焼けで茜色に染まっている。上句の「川」という比喩に引かれて、窓が水面のようにも感じられる。きらきらと光を返す窓が像を結ぶ。美しい景だ。ただ、「靠るる」の字面や、真っ赤に染まった世界、「燃ゆ」という表現によって、どこか不穏な気配も漂う。特に「靠」の字面にはインパクトがあり、〈告ゲルニ非ズ〉に見えてきて、上句の定義がどこか心の声のようにかすかに響きはじめる。

上下をつなぐ「と」の取り方に少し迷う。引用を意味する格助詞「と」と取って、〈と言いながら〉くらいの意味で取った。その場合、上句は主体のセリフかどうかに疑義が生じるが、上句を自分の発言の切り取りとすると妙に芝居がかっている感じがするし、下句の描写は窓の方を見ている感じがするので、どちらかというと他者のセリフのように感じられる。
他者が窓にもたれながら、「人間はひとつの不潔なる川」であると言う。その言葉を吐いているその人も、ひとつの不潔なる川なのだ。背後には夕陽によって茜色に染まった世界がある。そこからは視認できないだろうが、きらきらとした陽光を水面が返すように、窓は光を返しているだろう。逆光になっていて、眼前にある川の不潔さは視認できない。

不潔な存在であったとしても時に川は美しい。それは、夕焼けのような自然のマスキングによる場合もあれば、物理的には水は清らかではなくてもその存在が美しく感じられるガンジス川のような場合もあるだろう。それはどこか、人間という存在に重なっていくような気がするのだ。

午后翳る窓に目覚めてふたたびをわがたましひの底揺りに揺る/阿木津英『宇宙舞踏』

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