念校は人生のためあるのだろう想い出広がる冬の草はら

中川佐和子『春の野に鏡を置けば』ながらみ書房,2013年

念校とは、印刷物などの朱入れをほぼ終え、校了の直前になされる最終校正のこと。念校を通した先にあるのは印刷された紙媒体であり、もう訂正は効かない。ここで小さなミスが見つかるとホッとする。

上句の感慨がまず目を引く。念校でミスが見つかったのかはわからない。ミスが見つからないまでも、自分の書いたものを隅々まで再度読むという時間を過ごした上での感慨だろう。もちろん、主体が印刷関係者の立場で得た感慨である可能性もあるが、いずれにせよ、念校が人生と結びつく。どこか大仰な印象がないではない。ないではないのだが、「念校は人生のため」というフレーズに抗いがたく納得してしまう。

念校が出るということは朱入れがほぼ終わっている。念校が終わればあとは印刷されるのを待つばかり。ミスがないように何度も読む。これは不思議な時間でもある。主体が書き手という前提だが、自分の書いたものを何度も追体験する。もしこの対象が短歌なのであれば、自分の歌を何度も読む。自分の人生が滲んだ歌を、自分の体験が響いている歌を、何年か前の感慨が書かれた歌を、読む。当然、その時のことを思い出しもするだろう。

「念校は人生のため」ということは、初稿や二校は必ずしも「人生のため」ではないのだろう。それは、出版物の為であり、自分を含めた印刷物に関わる人のために存在する。校正という存在はそれ自体が仕事であり、非常にプラグマティックな存在だ。ただ、念校は少し違う。念校が存在しなくてもある意味ではよい。朱入れの事だけを考えれば、朱入れの箇所だけを読めばよい。もちろん、最後に全体を確認しておくという実際的な側面があるから存在する工程なのだけど、書く側からすれば、最後に与えられた不思議な時間でもあろう。ある意味では、自分が書いたものが自分のものである最後の時間だ。

下句は「冬の草はら」に展開する。「冬の草はら」が思い出の地であるのか、思い出が広がっていく心象の草はらか。どちらかと言えば、後者の読みを取りたい。冬に念校を読んでいて、その原稿から想起される様々な記憶や感情が、心象風景の草原に解き放たれていくのだ。その時間は念校という作業においてもたらされたものだ。少なくとも主体は強くそう感じているように思う。

「念校は人生のため」の解釈の経路には、かなり現実的なルートもある。例えば、誤植がある印刷物が出回ると困るから、念校は大事なのだというような解もありうるだろう。校正の作業性を考えればこのような解にも至る。ただ、下句の「想い出広がる冬の草はら」の存在によってその経路はいくらか阻まれているようにも思う。

上句にどうしてこうも納得してしまうのか。「念校は人生のため」というフレーズの強度もあるだろうが、何よりも、書くことと人生が結びついているからだと思うのだ。
念校という工程に人生を見出す。そこには物を書くという前提が不可欠だ。そして、〈書く〉という行為に対して、様々な負荷がかかっているからこそ「人生」という言葉がここに嵌り込むことができる。
そんなことを考えると妙に敬虔な気持ちになってしまう。

ヒルティを枕に置きて話しず人のひとのよろこびの淵/中川佐和子『卓上の時間』

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