冬の風よけながら話す声ならん火屋ホヤのようなる夜を背にして

山下 泉『海の額と夜の頰』(砂子屋書房  2012年)

 

 風が強いのだ。だから声がよく聞こえない。自然、風の方を向くのではなく、風を背にして、「よけながら」話すことになる。

 音というのは空気を伝わって進むものだから、空気自体が流されているのだとしたら、やはり音も流されるのだろう。曲がったり、拡散したりもするのだろう。

 

 「声ならん」という推量は、第三者の存在を示している。主体や眼前の相手ではない、誰かの発する声が聞こえている。

 それは、割合に大きい声なのかもしれない、風に負けないような。

 あるいは、小さくても、風と、発話者の身体と、主体のいる位置との関係性により、変にクリアに聞こえるものかもしれない。

 

 さて、下句では、その様子に奥行きが加わる。「火屋ホヤのようなる夜」がばっと背景として現れ、ぐぐっと深さを増す。まるで、鮮やかな舞台転換。歌舞伎で言えば、幕の振り落としのように、一瞬にして後景が現れる感じなのだ。

 

 その夜は「火屋ホヤのよう」だという。「火屋ホヤ」はランプの火を覆うガラスのことで、私は子どもの頃、電球の外側のガラスも「ホヤ」と呼んでいたけれど、それを「火屋」と書くとは知らなかった。確かに、火を守る家みたいなものである。

 

 実際に火が燃えているのかもしれない。例えば、どんど焼きのような場面。火を中央におき、それを夜が大きく包んでいる。夜自体が、火を守る火屋ホヤ

 または、火の気は全くないところで、球形の吹きガラスのように大きく膨れた、透明感のある冬の夜を感受したのかもしれない。その「夜」は、風で膨らんだものかもしれない。あるいは、たくさんの星のちりちりとした輝きを、火屋ホヤの艶めきと重ねたのかもしれない。

 

 冬の風をよけながら丸まる人達の背後の、大きな丸い夜。

 火屋ホヤのようなる」  レトロさも含めて、魅力的な比喩である。大いなる冬の夜、風に混じり、誰かの声が聞こえている。

 

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