教室の鍵を投げれば非常灯の光を浴びて鱗に変はる

楠誓英『青昏抄』現代短歌社,2014年

教室の鍵が宙を舞う。そのとき、非常灯の明かりが鍵にかかり、きらきらとした鱗のように見えたのだろうか。
鍵を投げる場面としては、二者間の受け渡しのようなものをまず想像したが、非常灯の設置されているであろう場所が受け渡しの軌道上には無さそうな点や、教室の鍵を締める時間の学校という光度が低くほの暗い印象を受ける場面の提示から、どちらかというとひとりでいる主体が特に理由もなく鍵を真上に放っていると「鱗に変はる」と感知したのかなと最終的には思った。何度か放り投げているうちに、綺麗な色だなというような抽象的な感想が、一首が提示する感覚に切り替わったのだろうか。

日常的な手触りのある一首だが、〈鍵を投げれば光を浴びて鱗に変はる〉というように、1段階抽象度を上げれば、たちまちに日常性は失われてしまう。
「教室の」「非常灯の」というふたつの限定が一首を日常につなぎ止めていて、「鍵」「光」「鱗」が純粋な詩語となることを防ぐ。
冒頭、下句について「きらきらとした鱗のように見えた」と解釈を述べたが、本来一首が提示しているのは鍵が鱗に変わったという〈事実〉のみでしかない。ただ、日常との連続性が捨象されていないため、鱗を比喩として感知することができるように思う。

それでも、鍵が鱗に変わる可能性を一首は捨てていない。〈やうな〉〈ごとく〉といような留保は付されておらず、結句では「変はる」と言い切っている。そうなれば、主体が立っている場所は水底のように暗く感じられ、光はそこに差し込み周囲を照らすものだ。ただ、それは明るい希望の光ではなくて、非常口のかすかな光。希望とするには弱く、照らすことができる範囲は狭く、主体自体を照らしはしない。鍵が鱗に変わってしまえば、扉を開くことが出来なくなってしまう。

非常灯は、火災などの文字通り非常時にのための灯りだ。緑色をしているのも、火災の際に視認しやすい色だからだと言う。「鍵」も「光」も希望を感じさせる言葉ではあるが、前述の日常的な限定によって、希望としての機能は限りなく弱い。

日常は希望に満ちていないことの方が多い。それだからこそ、ごくごく微量の希望のようなものに反応してしまう。それがまがいものであったとしても、希望を見出した記憶は灯りのように思うことがあるような気がするのだ。

人界の余白のごとし青白く光る公園車窓より見ゆ/楠誓英『禽眼圖』

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