砂糖衣のくだけるおとの響きたるここが私の頭蓋の空き地

富田睦子『声は霧雨』砂子屋書房,2023年

経験したことがある場面が立ち上がってくる一首だと思う。
砕けるときに頭蓋に響く音のする砂糖衣なので、マーブルチョコのような糖衣菓子をまず想像した。噛むとカリッと音がする。その音が思いのほか強く響いた。口腔で鳴ったはずの音が頭部で響いて感じられる。音は振動として頭部に伝わり、まるで頭蓋骨が響いているように感じられたのだろう。

初句七音でゆっくりと入り、「くだけるおとの」と二句目も全てひらがなで表記されていて、初句二句はどこかゆっくりと時間が流れる感じがする。二句目の時点では頭蓋に響くような強い音では無い印象だが、「響きたる」で反響する鋭い音が想起される。糖衣菓子を噛んだ瞬間と、頭蓋に音が響くまでの間に一瞬のタイムラグがあるように感じられ、それは体感的に認知できる感覚ではないが、下句の抽象度の高さがそんな把握を許容するように思う。

四句目では音が響いている場所が提示されるのだが、「ここ」という代名詞が配されていて、その空間は具体的には示されず、音だけが響き続けるような印象を受ける。結句に至って頭蓋骨に響くイメージが提示しなおされ、人体という空間がいくぶんかデフォルメされて提示される。あるいは、いま自分が「頭蓋の空き地」にいるような印象も受ける。

「空き地」という表現が個性的だ。「ここが私の頭蓋の空き地」という措辞からは、頭蓋に「空き地」があることは既知のことであったような手触りがある。「空き地」の場所まで既知のことであったかどうかは判断に迷うが、いずれにせよ砂糖衣が割れるときに鳴る響きによって「空き地」の場所に思いが至ったことは伝わってくる。

頭の中に空き地があるという感覚はわかるような気がする。日常生活を送るなかでさまざまなものを覚え、そして端から忘れながら生きている。脳内には記憶したものを置くスペースがあって、そのスペースは収納状況に応じて形を変え、収納されたものもよくわからなくなってくる。空き地の景色の細部が記憶に漏れるように、頭の中の空き地も曖昧模糊としている。もちろんこれは譬え話に過ぎないのだけど、そんな想像と砂糖衣が割れる音が繋がるような感じがして面白く思う。

砂糖衣は嚥下されてすぐに消滅してしまう。頭蓋の中の空き地に響いた音もまたたく間に消えてしまうだろう。ただ、そこに音が響いた体感的な事実と、そこに空き地が存在するという詩的事実だけが、一首の中で残り続けるのだ。

葛の花ブロック塀を垂れさがる風がきたなら揺れる覚悟に/富田睦子『声は霧雨』

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