家路とは常に旅路でゆるやかに髪を束ねて川沿いを行く

服部真里子『行け広野へと』本阿弥書店,2014年

帰路に抱いた感慨だろうか。初句二句の断定は強く響くが、それは「常に」という副詞の効用だろう。たとえば、〈家路とは旅路のようで〉とか〈家路とは旅路であって〉のような表現と比較すれば、両者にはいくばくかの違いがある。
ただ、強くは響くのだけど、一首からは切迫感はあまり感じられない。人生などの果てのないものを旅に喩えるのは常套的であるが、一首が旅として規定しているのは「家路」だ。比較的短く、終わりがはっきりとしている、ような気がする。

三句目の「ゆるやかに」が多面的な効き方をしている。直接的には「髪を束ねて」を修飾しているように思われるが、結語の「行く」にかかっているようにも読めなくはない。また、どことなく眼前にある川の流れも緩やかな感じがする。旅路も家路も「ゆるやかな」印象につつまれる。芭蕉が「古人も多く旅に死せるあり」と言っているように、旅のイメージには過酷さのようなものが付随するが、「家路」と「ゆるやかに」の措辞によって、この一首の場合は過酷な旅という感じがあまりしない。

現代における旅の持つ空気感は掲出歌のそれと離れていない。バックパックひとつで中南米を旅するというような過酷な旅もあろうが、多くの人がする〈旅行〉は安全で快適で負荷の少ないものだ。それは「家路」や「ゆるやかに」というイメージと近しい。芭蕉が覚悟を持って行った日本国内の旅は、現代ではその快適さが保証され、完全に日常と地続きだろう。髪を束ねる行為も、どこか旅装のようにも思われるが、あくまで「ゆるやかに」だ。

「家路」は基本的には毎日たどる。「家路」「旅路」と音が重なり、どこか反復性を感じる。「常に」とあるので、毎日の帰路は旅である。
家路は旅路であるとするこの一首からは、帰路は旅路だが、往路は必ずしも旅路ではないような印象を受ける。往路には目的がある。仕事だったり、学校だったり、スーパーへの食糧品の調達だったり、友人との食事だったり、目的があるから家を出てどこかへ向かう。それは日常そのものという感じがして、「旅」という語はどこかそぐわない。仕事へ向かう時に、仕事へ行かずに海へ行ったりビールを飲みに行ったりすることは不可能ではないだろうが、現実的には難しい。友達との食事に向かっている途中にパチンコ屋に行ってしまえば、友達をひとり失うことになるかも知れない。
ただ、家路に着いてしまえば、それらの行為は可能だ。海へ行こうが、居酒屋へ行こうが、美術館へ行こうが、パチンコ屋に行こうが、障壁となるものは往路よりも遥かに少ない。帰り道には無限の可能性があるような気がして、わくわくしてくる。そう、なぜなら家路は常に旅路だからだ。

家路はいつも同じ景色だ。ただ、その景色は季節によっても、偶然によっても、経年の変化によってもかわる。未知のものと出会うことだけが旅なのではない。既知のものと出会いなおすのもまた、旅なのだろう。

古の詩人たちは旅に生きることで多くの素晴らしい詩を紡いできた。現代の詩人は旅に生きることは難しい。ただ、日常に絡めとられていたとしても、日常を旅することによって、詩を紡ぐことができるような気がするのだ。

音もなく道に降る雪眼窩とは神の親指の痕だというね/服部真里子『行け広野へと』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です