増やしてもよければ言葉そのもののような季節があとひとつ要る

笹川諒『水の聖歌隊』(書肆侃侃房、2021)

春夏秋冬の四季にくわえて、あらたに「言葉そのもの」という五番目の季節がほしいという。その新しい季節は、四季の隙間のどの部分に挿入されるのか、考えてみたくなる。ちょうど映画の最後にエンドロールが流れるように、四季をめぐったおわりに、「言葉の季節」が来るのかもしれない。春から冬までにかかわった人々や、ロケ地や衣装を文字としてとどめておく「季節」。それは卒業式なんかも控えたちょうど今ごろの季節ではないかと思えて、この歌を引いた。

言葉そのものの季節が欲しい —— なるほどそれは、情報過多の世界に生きるわれわれに似つかわしい欲求であるといえる。しかしそれは、頭の中をほとんど言葉で満杯にし、言葉で人生を泳ごうとする人間という種だけが生活できるバーチャルの季節という感じがどうも、してしまう。自然や、自然の中に住むさまざまな生き物たちとともに享受してきた旧来の四季とはちがい、言葉の季節は人間が特権的に使おうとするものではなかろうか。

ところで、

優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊

という歌に由来する『水の聖歌隊』がこの歌集のタイトルであるとおり、水、雨、水鳥、グラス……といった水の縁語がここには多くうたわれている。それだけにこの歌集の主人公は、〈水〉に憧れに近いような親しみを感じているのか、というと、そう単純ではない。〈水〉と主人公のあいだには、この歌集題のもとになった歌を含め、つねに微妙な緊張が介在していることに気付く。冷たく澄んだ水を感嘆をふくんだまなざしで捕らえながら、しかし、なじみきることはできない。

青いコップ 冷たいことを知りながら触れるとひとつ言葉は消える
水槽の中を歩いているような日は匿名になり月になる
やがて言葉は届くだろうか蛇口から水は刀のように眩しく
噴水よ(人が言葉を選ぶときこぼれる言葉たち)泣かないで

『水の聖歌隊』の〈水〉の歌には「言葉」に言及するものも多く、その想念は掲出歌に示された「言葉そのもののような季節」への待望とからみあう。一・二首目のように、水に触れたとき言葉や名前は喪失し、あるいは三首目のようにすでに「言葉」を持たないことの不安がまるで刀のような蛇口の水に触れることで増幅される。この焦燥感が、「言葉そのもののような季節」という、言葉(いいかえればそれは、記憶や思い出ということにもなる)を保存するためのクラウド空間を所望させるのだろう。最後に、こんな歌を。

きみが発音するああるぐれいほどアールグレイであるものはない

「きみ」が発音することにより、その液体に名前が与えられる。澄んだ水よりも、温かく、茶色く色がつき、匂いにもクセがあるあの「ああるぐれい」が、澄んだ水よりもずっと親しいものとして主体の目の前に置かれている。そのいかにもアールグレイにふさわしい「ああるぐれい」という名は、「きみ」の記憶とともに「言葉の季節」にしまいこまれることになろう。

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