君は君のうつくしい胸にしまわれた機械で駆動する観覧車

堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013)

つまり〈君〉は観覧車であり、なおかつそれは「胸にしまわれた機械」によって動かされているという。この「機械」——ここには心とか、意思、精神、感情などが代入されうると思うのだが——は、がちゃがちゃと音を立てながら大きな歯車の回るようなからくりをイメージさせ、スムーズに動く精密機械という感じはしないと思う。歌の最後に至って、実は〈君〉じたいも観覧車という巨大な機械であったと明かされるとき、そのがちゃがちゃとしたぎこちなさが、心や意思から身体全体へと拡張される。そこになんとなく、主体の〈君〉への慈愛に満ちたまなざしがあてられているように思う。そんな読みが正統的であろうか。

しかし、「君は君のうつくしい胸にしまわれた」と上の句だけを切り取ったとき、君の中にちいさな君がいるというイメージがわいて、私にはなかなかそれをぬぐいさることができない。つまり「胸」という機械室の中にちいさな〈君〉がいつもいて、観覧車を操縦している。さきほどの「正統的な読み」のなかで、〈君〉への慈愛に満ちたまなざし、と書いたけれど、むしろこの歌の断定的な体言止めは、もうその部屋からは出られないよ、という残酷な宣言なのではないか、そんなふうにも思えてくる。

君はしゃがんで胸にひとつの生きて死ぬ桜の存在をほのめかす
君と一緒に胸の商店街へり集めたものは冬の色彩
ほほえんだあなたの中でたくさんの少女が二段ベッドに眠る

この歌集にはときおり巨大な〈君〉が出現して、いつも胸のあたりに何かを抱えている。それが桜という植物であれば、これはいつも自分の中に閉じこもっている〈君〉の象徴ということにもなろう。二首目には、〈君〉が主体とともに降りていく「商店街」がある。〈君〉の胸か、主体の胸か、わからないが、それでも彼らはふたりの世界に囲い込まれ、外に出ようとはつゆも思わない。あるいは最後の「たくさんの少女」がいるのは、「ほほえんだあなたの中」であるが、この少女たちもベッドで安眠し、脱走を企てることもなさそうだ。この歌は小野茂樹の有名な「あの夏の数かぎりなきそしてまた たつた一つの表情をせよ」(『羊雲離散』)をほうふつとさせる。たくさんの少女は、「ほほえんだあなた」の裏に隠された「数かぎりなき表情」の「あなた」であったかもしれない。

心の軌跡を書いて眠って目が覚めて作家は雪が降る窓を見る

眠る、といえばこんな歌もある。ここにあらわれた〈作家〉は、これまでの歌で〈君〉に対峙してきた主体ではないかと思う。だとすれば、ふたりの世界に閉じこもったまま「心の軌跡」を書き綴ってきた彼は、このときたったひとりで目覚めて、〈君〉が決して見ようとしなかった窓外の世界を、何かの記憶をたどるように見つめている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です