キリストに臍あることのかなしみにつながっている夜の水道

山下一路『スーパーアメフラシ』(青磁社、2017)

キリストの磔刑図などを見ると、たしかにへそが描かれている。へそは、母と子がかつて一体であったことの痕跡であろう。キリストの母であるマリアは、〈処女懐胎〉をしてキリストを産んだ。そのへそに宿る「かなしみ」とは、全人類の巨大な家系図にただ一組の母子だけが不完全なぶらさがりかたをしている、そんな不安を象徴しているように思う。

この「かなしみ」は、下の句にいたって「夜の水道」へといっそう奇妙な接続をする。たしかに、水道網とは、その町のすべての家庭をつなぐ同時代上の系図なのかもしれない。しずまりかえった夜中、あの母子の孤独と、この家から伸びていく網の目のような水道管を意識する。自分は、この社会あるいは、人間の歴史に、ほんとうにつながっているのか。母子の孤独はいつしか主体自身にのりうつっていくようだ。

保存樹番号9の札かけられている欅よ それでいいのか
わたしはロボットではありません。わたしには番号があります
青い海まっ青な空どこにも所属していないスタッフジャンパー

「つながり」の成否は、〈所属〉や〈属性〉というキーワードに姿を変え、また社会批判をも交えながら、『スーパーアメフラシ』という歌集全体の隠されたテーマに発展していく。掲出のキリストの歌において、孤独な主体は人間の歴史や社会へのつながりを求めていたように思うが、ここに引く三首においては、むしろつながりを拒否しようとする。「つながり」から独立した、〈ほんとうの自分〉とはなにか? その答えを探し始める。

一首目・二首目はマイナンバー制度への皮肉で、当人の意思とは関係なく番号という属性が与えられてしまうことへの拒否感が語られているのだろう。が、同時に「それでいいのか」と水を向けられるとき、それは単なる制度への批判を通り越して、番号をつけられたことで見えなくなってしまったほんとうの自分があったはずではないか、という問いかけになる。三首目の「どこにも所属していないスタッフジャンパー」は、若山牧水の超有名歌へあてつけるように非正規労働を語っているのだが、不安定な身分への不安がある一方、かりそめの所属を拒絶することの正しさというもう一つの読みを捨てきることはできない。非正規労働という社会問題をとりあげながら、切ないほどの自由への渇望と、〈ほんとうの自分〉探しが同時に行われている。

さて、〈非正規労働〉といえば『スーパーアメフラシ』には主人公の母を詠んだ、こんな歌があった。

二本松IC男子トイレで掃除してたおばさんがボクの母です
早朝のラブホテルのリネン室で仮眠をしていたボクの母さん

清掃のパートをしていた母の出勤先のひとつがラブホテルであったこと、しかも、リネン室で仮眠をしたということまで、子供はどうして知っているのだろう。母がみずから語ったのだろうか。あるいはまったくの空想なのかもしれない。それでも、ユーモアの漂うほどの具体性を示すことは、〈ほんとうの母〉を語りたいという切ないほどの欲求に通じているのではないか。ラブホテルという舞台をとりながら、ただ清掃をし客室ではなくリネン室に眠るという母の行動は、期せずして聖母マリアの〈処女性〉へ通じていく。ラブホテルという世俗中の世俗のなかに語ろうとする〈ほんとうの母〉の姿が、もうひとりの聖母として今たちあがろうとしている。

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