指しゃぶりやめない吾子のつむじからふっくら土と雨と春の香

塚田千束『アスパラと潮騒』(短歌研究社、2023)

子供のしゃぶり続ける指から、ついには土や雨や春の匂いがしはじめる、というのではなく、つむじから、というのがおもしろい。つまり外で遊んだ子供のやわらかな髪が、春の空気をたっぷりすいこんで、つむじのあたりから匂いを放っているように感じられる。そう読んでもいい。あるいは、その子のつむじがなぜだか噴出孔のようになっていて、子供のからだの内にある春や土や雨の気配がそこから湧きだしている。奇妙ではあるけれど、そんなイメージも捨てがたいし、むしろ私はこの空想を楽しみたい。子供の体から〈春〉がうまれでてくるようではないか。

「指しゃぶりやめない吾子」と自分の子のことを言っているから、親としてそのことを気にしているのにちがいないと思う。でも、つかのまうなじの方に目が向いて、春の香りだなんて言い始める。その肩の力の抜けた瞬間が歌になっているということに感銘を受けるのだった。やっぱり〈春〉が、主人公(親)の力みをほどこうとしてくれるのだろうか。

食べ物と消毒液の混ざりあう生の匂いに溢れる病棟
清潔な感情として熟れすぎた洋梨の香から目を背けたり

『アスパラと潮騒』から、〈匂い〉の歌をあと二首。掲出歌をふくめ、歌集中の「ファミリーポートレイト」という一連におさめられている。この歌集の主人公は医師であり、また家庭では母として子育てをしている。二首目の「熟れすぎた洋梨の香」には、今日の掲出歌の「土と雨と春の香」に相通ずる魅力的な野趣があると思うのだが、歌のなかで主体はこの香りに背を向けざるをえない。そこには「清潔な感情として」、つまり医師としての衛生観念がはたらいているのだろうと思う。

そもそも人間の感情とは、土や雨のようにそのときどきに変化する〈匂い〉を放ち、ともすれば洋梨のように水分をたっぷり抱えたまま爛熟していくもののはずである。「清潔な感情」という不可能をわざわざ歌に詠みこむのは、生身の人間としての自分の感情を切り捨てる医師としての自分への皮肉めいた気持があるからではないかと思う。

たましいをこの世においておくためにしゃぶりつづける親指だった

これはまた別の連作(「本物の花は死なない」)より。子が指をしゃぶり続けるのは、「たましいをこの世においておくため」。それは心を落ち着かせるためということだろうけれど、もっと拡大していえば、生身の自分、本当の自分でい続けるため、ということにもなろう。そんな指しゃぶりであれば、大人にも必要かもしれない。子の指しゃぶりを見つめながら、まずは医師という鎧を脱いで、母として子に寄り添う。いや、この際、母という身分も捨てられる。今日の掲出歌に詠まれていたのも、ひょっとすると、すべての身分から開放されて、土や雨や春という自然の成分にまで分解されたかのように思いをはせる、そんな満ち足りた瞬間だったのかもしれない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です