中津 昌子


「どこにゆくのだどこにゆくのだ」走ろうとしても砂漠は許してくれぬ

齋藤芳生『桃花水を待つ』(2010年)

 

 

広大な砂漠。

そこを走ろうとする。

すると砂に足がとられて、思うように進めない。

その感覚を、砂漠が問いかけたかのような「どこにゆくのだどこにゆくのだ」ということばから、うたい始めている。

このうたいだし方に、ざっくりと大柄な、しかしとても深いところに届いているものを感じる。

走ることに意味はない、どこへ行っても意味はない、そういう砂漠の思想とでもいいたいものの中に、この呪文のような問いかけに巻かれつつ、呑まれていくような気がする。

 

 

アブダビでの生活の中から生まれた作品が、かなりの部分を占める歌集には、次のような歌もある。

 

・もしかしたらここは大きな砂時計の中かも知れず 砂にまみるる

 

今までの暮らしの中では感じなかった、ある、ずぬけたスケールの中にいることが感受されているらしい。

 

一方で、日本は、たとえば次のようにうたわれる。

 

・我のいまだニッポン臭きを洗わんか洗濯機ぐわんぐわんと回し

・なまあたたかき日本人のふくらはぎ大量に夜の車道を渡る

 

二首目は帰国後の作品だが、アブダビと日本の間で、どういう思いが行き来したのであったか。

たとえ、明確な意識を形づくらないものであっても、短歌という詩型の内なればこそ、それらは生のままに、そのままに残されているようだ。

 

さて、自分の国を相対化する視点を、生活を通して得たことは、わが国固有の詩型である短歌に対して、また新しいまなざしを育てようとするのか、しないのか。