死ではない終はりを待つてゐるひとがありの実を剝く皮をたらして

魚村晋太郎『銀耳』
(砂子屋書房、2003)

ありの実は梨のこと。「無し」では縁起が悪いから「有りの実」と呼び変えるのだと、知識としては知っていたが、現実の用例を見たのはこれが初めてのように思う(短歌の作例が〈現実〉と呼びうるかどうかは別として)。皮をたらして、とあるから、柑橘のたぐいなどではなく、包丁を使ってくるくるとらせん状にむいていく種類のものだとさりげなくヒントが添えられている。だから「ありの実」を知らない人でも、イメージとして林檎か梨か、くらいには絞り込むことができるのではないかと思う。

前回も蟻の登場する歌を紹介したとおり、私は昆虫の蟻が好きだから、ありの実を梨のことと知っていても、つい蟻のことを考えてしまう。蟻の体に「蟻の実」と呼びうる箇所があるとすれば、それはお尻(正確にはあれは “腹” なのだが)の部分であろう。「蟻の実」をいくつも入れたどんぶりを前に巨漢の男が(皮をたらして、というわけにはいかなそうだから、おそらくは巨峰を剝くような感じで)さしてうまそうでもなく無表情にそれを食べているさまをイメージする。

もっとも、この歌の「ありの実」から蟻を思うのは単純な誤読にほかならない。それでも、ここに自分とは異種の命を無頓着に殺していくようなイメージが隠されているような気がするのだった。ありの実を剝いているのは、「死ではない終はりを待つてゐるひと」である。その人が待ち望むのはあくまで「終はり」であって不老不死とか、輪廻転生ともまたちがう。死ではない終わりとは、病苦や老いを経ない魂の消失のような超常的な無への移行であろうか。

その死に代わる何かを探し求めることは、歌の中で、とどのつまりが梨を「ありの実」と呼び変えるというきわめて表層的な行為に象徴される。いくら「ありの実」と呼んだところで、それが梨であるのは変わらないのと同様、ひとりの人間の「死ではない終はり」も、結局は死である。「ありの実をむく皮をたらして」という、それがもし動物であったらたいそう残酷に見える描写は、この「ひと」の〈死〉に対する感度の低さが、まわりまわって自分とは異なる何者かに犠牲を強いるということを語っているように思う。しかし目の前で殺戮されるのがありの実——梨である以上、この「ひと」はその行いの残酷さに気付かない。

牛AのカルビがBに重なりて運ばれてくる清潔な皿
無精卵なればやすらに積まれたるMのパックをひとつ選びて
銀蠅のすみやかな羽化 神秘的非合理による支配を待ちて
人間の壊れやすさ、と思ひつつ炙られた海老の頭をしやぶる

では、そこにあるのが梨ではなく動物であれば、どうなのかといえば、同じ歌集にこんな歌がある。三首目の蠅を待ち受ける、神秘的非合理とは、生まれ出た命が、それが銀蠅であれば殺されねばならないという、人間が考えた極めて非合理な理屈のことを言っているように思える。一二首目も、「清潔」「やすらに」という甘い言葉を使いながら、その神秘的非合理が実に卑近な形で私たち(人間)の生活を取り巻いていると教えてくれる。四首目は、海老のからだを解体し、食しながら、海老のではなく人間の「壊れやすさ」を思う。人間は死をめぐる想念を勝手に作り上げて、無垢にいきる異種の者たちにいつもおしつけている。

*引用は新装版(砂子屋書房、2022)によった。

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