昼間にはなかったかのよう夜の駅からドクダミの白見えすぎている

相原かろ『浜竹』(青磁社、2019)

前回の梨(ありの実)に続いて季節外れの歌を。一月上旬に千種創一『千夜曳獏』の歌を紹介した際も、ドクダミがうたわれていたけれど、あれから日々次から次へと歌集を読み継いでいく中で気付いたのは、歌人たちは好んで(?)ドクダミを歌にするということである。最近の私は歌集を二三冊手にとればきっと一度はドクダミが出てきてしまう。歌に詠まれる植物という意味では、サクラとくらべればおそらく頻度は少ない。サクラがきれいだから、きょうはサクラを詠んでみよう、と歌人が考えるように、ドクダミを詠もうと意識しているわけではない。でも、散歩をしていると道端のドクダミが視界に入るように、歌を詠んでもなんだかしばしば入り込んできてしまう。そういうモチーフがドクダミなのではないかと思う。
(と言いつつ、日々のクオリアのページでドクダミを検索すると案外少なかった。統計的な話ではないので、あしからず)

けさの歌は、ドクダミのそんな微妙な存在感の強さを、よく言い表していると思う。「夜の駅からドクダミの白見えすぎている」の「から」がやや難しいのだけれど、駅のホームやロータリーのところに立っていると、線路沿いや植込みに群れをなして咲いているドクダミの白い花が「見えすぎている」。そういうことだろうか。そんなうっとうしそうに言うのだから、離れたところからドクダミの姿を視認しただけであの独特のにおいを思い出すようだったのかもしれない。あるいは、いっせいに花が咲いて、かわいい花だ、と主体が思う。しかし、ドクダミだしな、思い直す。そんな意識の流れが「見えすぎている」に込められているようにも思う。ふつうサクラの花が「見えすぎている」とは言わない。この主体はきちんと、ドクダミという対象の在り方にそった意識の仕方で、ドクダミを意識する。視界に入り込んでくるドクダミをただ歌に描くだけでなく、「見えすぎている」と感想を付け加えるのである。

歯科医院待合室で聴かされる音楽われをとくに癒さず
カニカマは蟹の代用とかでなくカニカマとして俺は好きだよ
平仮名が車のナンバープレートにとんと一文字「ぬ」が良し今日は
両端に赤く線あるレシートをまさか当たりとはよろこばねども

『浜竹』に収録された、ドクダミ的存在のモノたちに目を向ける歌の数々である。おもしろいのは、それぞれのモノたちに、きちんと評価を下しているところだ。ドクダミ的存在とか言ってしまうと、カニカマ製造会社の人は怒るかもしれないが、しかし、レディコミに出てくるチャラい男よろしく、この歌はカニカマを、そのウィークポイントゆえに「俺は好きだよ」と肯定してみせるのである。赤い線のレシートの歌は、「よろこばねども」でむすばれるのだが、言いたいことは「よろこばねどもちょっと好きだよ」ということなのではないか。そう思うと、歯医者の待合室のBGMや、掲出歌の「見えすぎている」ドクダミなども、うっとうしがるようなそぶりを見せつつ、でも生活のなかに顔をだす、しょうがない奴らとでもいうような、愛おしむ気持ちがわずかに含まれているように思う。

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