『漆伝説』萩岡良博
一首には「宇陀佛隆寺」と註がついている。佛隆寺は奈良県の宇陀市赤埴(あかばね)にある古刹で、八五〇年に空海の高弟、堅恵によって創建されたという。そこに立つ桜は奈良県最大最古の桜と称され、樹齢六百年とも八百年ともいわれているらしい。宇陀が生地である作者は、ひと日、桜に呼ばれるようにして訪れたのだろう。見上げた桜は折から満開を少し過ぎ、「かはたれ」の薄明の中に「重たげに」立って、「もの思ひにしづみゐる」ようであったと歌っている。歳月の重さを一身に負った桜の息づきを感じとったのであろう。そのとき一瞬風が吹き過ぎたのか、「さくら散る、七十年が秒きざみにわが身ぬちよりふぶき出づるも」とも歌われている。作者の七十年の歳月が「秒きざみ」に桜ふぶきに変じて、「わが身ぬちよりふぶき出づる」というのである。そのとき、千年という桜のはるかな時間と、作者の七十年の「秒きざみ」の時間とが妖しく入り混じる。桜という存在が見せる変幻である。二〇二三年刊行の第五歌集。