表面に〈さとなか歯科〉と刻まれて水星軌道を漂うやかん

笹井宏之『ひとさらい』
(BookPark、2008)

笹井宏之の歌には〈永遠〉を意識させるものが多い。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす

一首目については、あらためてここに書こうというのが恥ずかしくなるほど、これまで多く人が語ってきたと思うが、ひらがなの「えーえん」は泣き声にも似て、最後には「永遠解く力を下さい」という訴えにいたる。いっぽう、このひらがなは「永遠と口から」にも通じ、私は空也上人の像のように、口から次々と新しい自分が生まれてしまうという状況をイメージする。輪廻転生のごとき立ち止まることのできないスパイラルから、どうか私を救ってください。この訴えの意味するところはそれではないかと私は思う。しかし、一首の中で「えーえんとくちから」と三度も繰り返すこの歌は、それ自体がもうスパイラルと化し、語り手はもうあたらしい生へと向かう局面に立ち入ってしまっているように見える。

一方、掲出歌にある水星軌道は、先の歌に語られるスパイラル状の永遠そのものであろう。あの歌では「永遠解く力を下さい」と、それでもまだ最後の訴えができるくらい身近に、語り手を見守ってくれる人がいた。しかし水星軌道となるともうひとりぼっちだ。事実として水星は、宇宙に関する話題で登場する月や火星よりも遠い。しかしそんな現実の距離よりも、歌の解釈で重要になるのは心理的な遠さであろう。私たちは月のことはしょっちゅう話題にする。火星のことも三年に一度くらいは話すかもしれない。でも、水星となると、宇宙や天体に興味のある人でなければ話題にすることなんてほとんどない。「さとなか歯科」というまぎれもなく地球に生きたしるしを胸に光らせたやかんが、そんな遠い軌道に放り出されてしまった。私には、このやかんは「永遠解く力を下さい」と訴えていたあの語り手その人だろうと思えてならない。あんなに切なく訴えていたのに、いざ水星軌道に投げ込まれてしまうと、もうその永遠を静かに受け入れているように見える。そのことが私たちにとってのせめてもの救いかもしれない。

さて、先の引用の二首目について、書いていなかった。その樹の「ねむらない」とは、簡明にいえば「死ぬことがない」、つまりその永遠のスパイラルにもう二度と入らないということであろう。永遠のごとき生を持つ樹に生まれ変わって、せめてすこし離れたところからあなたを見守っていたい。落とされた実は、ここにいるよ、というメッセージだ。永遠に続くスパイラルから、永遠の生へと、永遠の意味が移されていく。それでもすべての命はいつかねむらなければならないのだけれど。

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