生きたがるいのちがあるので生きているただそれだけのおあいそ笑い

早坂類『風の吹く日にベランダにいる』
(河出書房新社、1993)

もし歌会にこれを出したら「もうすこし具体を」などと言われそうなのだが、ほんとうに芯を食ったことを言うときにはむしろ具体などとりはらったほうが多くの人の共鳴をえられるという例だと思う。一首の中でゆいいつ生活の手触りが感じられる「おあいそ笑い」も、実際にそんな笑みを浮かべたというわけではないように思う。あいそ笑いを向ける相手は、自分の「いのち」か、それとも、しかつめらしく「生きる目的」などを問うてくる社会に対して、なのか、とにかくそういう主体自身の生きる態度がここには語られている。

ときどきは自分の体を見おろして今在ることをたしかめている

たまに確認しなくては生きているかどうかも怪しくなるというその「いのち」。掲出歌にも、こちらの歌にも、自分の「いのち」から分裂して、生きる目的に頭を悩ませたり、「自分の体」を客体視して目的がみつからなくても本当に生きていられるのかとたしかめようとする〈わたし〉がいる。生きる目的など見つけられなくとも、肉体は呼吸をし、ときがくれば腹も減る。宿題ちゃんとやってきたか、と聞いてくる先生にニタニタと笑ってごまかそうとするように、生きる目的を見つけれられない〈わたし〉は、生きている〈わたし〉に対して「おあいそ笑い」をしなければならない。「あいそ」に「お」までつけて敬遠しているのは、迷いなく生を紡ぎ続ける肉体への気おくれと、ありがためいわくとでもいいたげな気分ゆえ。

生きてゆく理由は問わない約束の少年少女が光る湘南
朝、ユキが非常に抽象的な服装をして私を誘いに来た

こちらは具体、それも固有名詞のある歌。歌集の冒頭に掲げられた一首目の「湘南」はできすぎ(つきすぎ)ともいえる舞台設定だが、「生きていく理由」をみつけられない彼ら/彼女たちの現実社会から逃避してたどりつくきらきらしい夢の世界としての湘南なのではないか。二首目の、唐突に名指しされる具体的存在のユキは、「抽象的な服装」をしているという。服装がコンサバとかフェミニンなどというとき、その概念をまとっているようで、「抽象的な服装」であるということができるだろうか。それがいちばんありえそうな読みかもしれない。しかし、生きる目的はなにか、という、あまりにも大きな問いを身にまとって、とそんな雰囲気で読んでもいいように思えて、掲出歌の関連であげることにした。今日引いた歌はすべて『風の吹く日にベランダにいる』から。固有名詞の使い方にちょっとクセがあっておもしろい歌集だ。

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