ハンドベル奏者の右手左手の音のあゆみせり少女ふたりは

睦月都『Dance with the invisibles』
(角川文化振興財団、2023)

あたりまえに「ハンドベル奏者」についての歌だと思って読み始めると、「音の」のあたりで怪しくなって、最終的にふたりの少女のことをうたっているのだとわかる。ハンドベル奏者は単に比喩のために登場させられた実体のない存在だった。しかし、ふたつのハンドベルがそれを持つ腕を通じてひとりの人間(奏者)の胴につながるように、このふたりの少女も、根元の部分できっとつながっている。たとえば、ひとつの家庭、ひとりの母親、というように。両手に持ったハンドベルは、なにも交互にならすとは限らない。ときに片方の少女が突発的に走りだしたり、意味不明なことを叫んだり、しながら、それでも結局はふたり一緒のあゆみに収束する。

『Dance with the invisibles』を読みながら、どうにも気になったのは下に引く歌に登場するような「妹」の存在だった。歌集の前半では、主人公は妹とともに暮らしている(母や猫もいるらしい)。掲出歌の「少女ふたり」を、主人公は自分たち姉妹と重ねあわせながら見つめていたのではないかと思う。

いもうとの靴借りてゆく晩春のもつたり白き空の街へと
夜の廊下に妹とわれはち合へばををーんをあーんと挨拶をかはせり
妹が帰らぬ夜のひとつあり真珠のやうに寂しかりけり
秋なれば光澄みつつある昼を妹の婚告げられてゐつ

出会いがしらに、ををーん、をあーんと云いあう姉妹の姿は、そのままハンドベルの「音のあゆみ」を思い起こさせる。しかし清らかなベルの高音から、ぼんやりとした低音の「ををーん、をあーん」への変化は、ふたりの関係性が変わらないまま体だけが大きく成長し、よどんだような毎日の中から抜け出られずにいることがうたわれているようでもある。一足の靴の貸し借りをするエピソードも、からだの末端の部分でふたりがつながっているというイメージを補強する。しかし、それだけ親密でありながら、ふたりはばらばらに家の外へ遊びに出る。あの少女ふたりの歩みのように、ばらばらになってもすぐ立ち戻ってくるはずの妹が帰らない晩もあった。やがて結婚を告げられる日が来る。「婚告げられて」という四首目はそのシンプルな事実の提示、一方では「秋なれば光澄みつつある昼」とシチュエーションの方を異様に飾るところにむしろ寂しさが募る。

「婚告げられて」の一首ののち、歌集には不思議と妹は登場しなくなる。さらにはコロナ禍のエピソードがうたわれるようになり、ここまで引いてきたような内にこもった甘く幻想的な雰囲気から、読者ともども現実世界へと引っ張り出されることになる。

三十歳になるのは この世にひとりぼつちみたいな表情をやめたこと
スモークをまとふ裸の踊り子の奥歯に銀のかんむりを見き

「婚告げられて」の歌よりもやや前にある「クラウン」という一連から二首を引いた。裸の踊り子はなににも頼らずにステージに出て、裸でありながら、口の中に銀の冠を隠している。このときの主人公のまなざしは、妹や「少女ふたり」を見つめていたときとちがい、たった一人で生き延びる女性を観察している。「ひとりぼつちみたいな表情をやめた」主人公は、このときすでに「ひとり」で生きなければならない未来を引き受けつつあったのではないか。

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