高橋睦郞『虛音集』(2006年)
鹿肉にナイフを入れる。
その時、鮮やかに脳裏に浮かぶのは、
伏した鹿、その伏した睫毛の、
伏した翳。
前後の歌から食事の場面とわかるが、目の前の肉から、生きていた時の動物の姿を思うことはないではない。
しかし、掲出歌は単に思い浮かべただけではない。
「伏す鹿」に、死を受け入れようとする心の形が匂う。それが、「伏せし睫毛」でさらに深度を増す(だが、ここまでなら甘ったるさに終わる)。
続くのは、「伏せし深翳」。一読、妙な表現だと思ったのだが、「伏せし睫毛の(その)伏せし深翳」と補うような感じであろうか。
はじめ「深翳」が「伏せ」ているという風に、あらわれでた「翳」がさらに「伏せ」ているイメージを読み取ったが、これは無理だろうか。
「伏せし」は「伏しし」としたいところだが、音が気に入らなかったものと思われる。
「切り裂く」の強烈さ、「顯つ」の鮮やかさと照り合いながら、〈死〉の姿はしずかにふかく沈んでいく。