黒瀬 珂瀾


とつくにの丘にたしかに建っていた鐘楼あれはわたしのあばら

佐藤弓生『薄い街』

鐘楼とは、寺院や教会などで、鐘をならし、時を告げるための建物。世界で一番知られた鐘楼と言えば、かの「ピサの斜塔」だろう。仏教寺院の鐘突堂も鐘楼だが、この歌の場合は、キリスト教会の高い石組の鐘楼など、ヨーロッパ的な風景を思い浮かべた方がしっくりくる。

「とつくにの丘」とはどこだろう。どこかの田園地帯かもしれない。そこには、村全域を見渡せる程度の、教会の鐘楼が建っていた。少なくともヴェネツィアやアントウェルペンの鐘楼のように、物見塔の役割を果たせるほどの高さではない。

「建っていた」というのだから、もうすでにその鐘楼は無い。村人が去り、風化したのか。戦火や災害で喪失したのか。それはわからない。だが、作者はその鐘楼が眺めていた風景を、身の内に確かに知っている。なにしろその鐘楼は今、「わたしのあばら」骨になっているのだから。

遠い時空を超えて、私の一部となる鐘楼。権威的、男性的な象徴でもある鐘楼が、やわらかな韻律をつむぐ「わたし」の胸の中にある。だとしたら、わたしの頭蓋骨は、大腿骨は、背骨は、いったい何だったのだろう。

人間は誰一人、純一なものだけで出来あがってはいない。

さまざまな時間、時代。

さまざまな空間、景色。

さまざまな性。

それらすべてを今、ゆるやかに抱きとめることで、「わたし」が生まれるのだ。

追記

神がアダムのあばらを抜きとり、それを元にイヴを創造したという旧約聖書の創世記の物語が、下敷きになっているのかもしれない。だとしたらなおさら、「わたし」は、さまざまな世界の破片を抱きとめて生まれた「女」なのだろう。