馬場あき子『飛天の道』(2000年)
自分の心底をじっと見つめてみると、そこには仏像を彫る男がいるのだという。木材に向かって、もくもくと彫る男だ。仏像の造形を考えながら、小気味よく、手際よく鑿を入れる。木材に対して向きを変えては鑿が入れられ、そのたびに刃の部分が光を反す。リズムのある鑿の動きを、「折々の鑿」で表しているのだ。澄んだ緊張感が、男の周りにはある。
「仏像を彫る男」の姿として、夏目漱石『夢十夜』の第六夜で次のように描かれた運慶を思い出す。
――運慶は見物人の評判には委細頓着なく鑿と槌を動かしている。一向振り向きもしない――
――運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を堅(たて)に返すや否や斜(は)すに、上から槌を打ち下した。(中略)その刀(とう)の入れ方が如何にも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挟(さしはさ)んでおらんように見えた――
このような姿を馬場あき子の「仏像を彫る男」にも思う。仏像と対峙しそれに集中しきった男と、迷いのない鑿さばき。「心底」に棲むというその姿は、もう一人の自分の具象ではないだろうか。