黒瀬 珂瀾


しづけさは座卓のしたのゆふぐれの猫のぬくもり右腿に添ふ

阿木津英『巌(いはほ)のちから』

静かな夕暮れ時。一人、座卓につく。食事中か、執筆中か、ぼんやり物思いにふけっているのか。窓の外にはあかあかと夕暮れが見える。だが作者はそれ以外に、見えない座卓の下に「ゆふぐれ」を感じた。そっと寄り添ってきた愛猫のぬくもりだ。「ゆふぐれの座卓の下」ではなく、「ゆふぐれの猫」という表現が、やはり面白い。

その猫が見えている訳ではない。右腿に暖かい毛玉がそっと纏わりついてきたので、猫が座卓の下に潜り込んだことに気付いた。作者は覗きこむようなことはしない。猫の好きなように振る舞わせ、自分は自分の世界をそのまま続ける。たぶん猫はひとつあくびでもして、右腿にすり寄ったまま眠るのだろう。すべては座卓の下での音もない出来ごと。眼の前では何も動かない。そんなひとときすべてを指して、これが「しづけさ」だと作者は言う。

二、三、四句目には「の」が4回繰り返され、読者だけの視線で「猫のぬくもり」がクローズアップされる。そして、まさに何気なく添えたような結句が、身体的な実感を呼び戻す。そうすることで、一首に満ちていた「しづけさ」に、読者は改めて気付かされるのだ。さらにこの「しづけさ」を主語ととると、まるで「しづけさ」自身が「猫のぬくもり」を右腿に添えたようにも読める。出来ごとを散文的に説明した歌ではない。韻文の響きにより、無意味の中から叙情を紡ぎ出した歌だ。

たましひの根のふらつきてゐるわれを耐へつつ窓のけやきの葉叢

この一首も「われを耐へ」ているのが「われ」なのか「けやきの葉叢」なのか、よくわからなくなる。個人的な小さな意識を越えた一瞬を刻んだ歌は、時に読者に慰藉を与える。こうした、助詞と韻文の力を、私たちはもっと信じてよいのかもしれない。

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