然り、然り、幸福ならむ夫と子と夕もやのごとき魚を飼う日は

佐伯裕子『未完の手紙』(1991年)

 

歌の冒頭から、「そうである、その通りである」と古語でたたみかける。続けて、幸福といえば幸福にちがいないだろう、と、諾う気持ちを表す。が、「然り、然り」のとぼけた感じと、「幸福ならむ」と人ごとのように推量する口調から、作者がどこか冷めていて、その「幸福」とやらに疑問符をつけていることが分かる。夫と子がいて、家族皆で魚を飼っている。確かに幸福な家族のある一日の風景にちがいない。「夕もや」の比喩から、微妙な彩りを見せる熱帯魚を私は思い浮かべたが、この比喩は、魚の形状のみならず、家族の形の捉えがたさや、はっきりとはしない作者の気分まで反映しているように思われる。

 
  われにしか見えぬ天使が君と居て子が居て夕べのソファー満席

 
家族の中にありながら、一人遊離する心がよくわかる一首だ。かといって、歌が家族の否定や家族からの疎外感に向かうのではなく、朴訥としてはぐれる心が、家族の中で普通に生きている。掲出歌もそうである。その「普通さ」が輝かしく思える。

 
  君と在るかかる夕ぐれ茜さす歴史の淡き読点として

  ダストボックスの底に捩れている影は夢みるような未完の手紙

 

はぐれる心が見つめているのはこういうところだろう。「君」といる或る夕ぐれを、不意に歴史という大きな視点から俯瞰する。または、届けられることのない、永久に中断したままの手紙がダストボックスの底で抱える沈黙を思う。現実の中に流れるもう一つの時間に目をこらし、耳を澄ませている。

 

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